新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

続・続・続お宅コメントへの私コメント~

2022-01-11 13:44:34 | 滅ぼし合う対立物の統一



さて…さて…お宅の真・本領発揮ですね♪♪♪
お宅は、こうでなければ、私は楽しめませんよ!


確か!お宅は、前回のコメントで以下のように書いていますね!
「>今後はこのようなコメントをすることもないでしょう。お時間を使わせて申し訳なく思います。
>御免」

それを~これまた超長文のコメントを書いてしらっしゃった!
この言動・行為・を「大嘘つき」と言わず、何と呼べばいいやら?

この事実から言える事は、
お宅にとっての言葉・記述は、全て感情的表現である。
お宅にとっては、お宅の、その時々の感情が全てであり、お宅にとっての真実なのでしょう。
だから、前回と今回の記述を比べて、私が「お宅は大嘘つき!」だと書いたとしても、
お宅は、胸を張って高らかに「お宅の俺の記述に嘘はない!」と叫べるでしょうね…

それは、「いま泣いた子が、もう笑った」レベルであり、
これは、今この瞬間が全てで、過去は全く記憶できないレベルですよ。

さて前置きは、ここまでで~以下のコメントを読み進めてみる事にしよう。



>ドゥルガー

>・コメント
>もういいよ、自称自由びと。

私コメント~

「自称」ではなく「コテハン自由びと」です。
言葉・認識・表現は正確にお願いします…
と書いても、お宅には至難ですね…失礼しました。
お宅には不可能な事が分かっていて~
それを強要するのは、大人ルール常識違反ですよね。

>お前の言葉には嘘しか無い。

私コメント~
それは、お宅に「論理的な理解能力」が皆無だからですよ。


>南郷の本は「科学として、専門としての武道を説く」として具体的な武道・武術の技を中心として論を説いているのは読めば分かる。

私コメント~

何回も説いてしますが…
南郷氏の「武道の定義」を否定しているお宅に、南郷氏の説いている事を正しく理解するのは「至難」ですよ。
それは、お宅の「科学として、専門としての武道を説く」と言う言葉そのものが間違っています。
そもそも南郷氏は書いています。
「私・南郷氏が構築・創出した学問一般」から、個々の何かを説いている…といった事です。
でから、「武道」も科学としてではなく、学問一般から説いた「武道」ですよ

宅は、お宅の思い込みで、分かっているつもり…なだけですよ。
何度いっても分からないお宅は、本当に分からん珍ですよ、



>お前のように「武道武術でなく何かを必死で頑張ること」などではない。

私コメント~
私が、真面目に頑張って南郷氏から学ぼうとしている事は、
初めから一貫して「南郷氏の弁証法」なのです。
その弁証法を正しく修得・体得…する為に、
その時々の何かを頑張っている、のですよ。




>だから竹刀で叩き合う剣道を否定しているのだし、頭から地面に落とさずに畳みの上に背中から怪我をしないように受け身を取らせる柔道を批判している。

私コメント~
え?お宅は、ヤッパリ南郷氏の言説を分かっていません。
南郷氏が否定しているように、私は説いただけです。

それは、「剣道は、剣・刀を扱う武道」、
それを「竹刀の叩き合い」で満足・終わっている、
現代の「剣道」は、その呼称が内容に即していない。
改名して「竹刀道」にした方が、実質・内容に合っていて科学的である…と。

柔道の然り、技ではなく、剛力頼っての技は「柔道」てはなく「剛道」が…なんて…
更に、多くの人々が理解していないモノが「南郷継正」の心・精神です。
南郷氏が書いているような「掌に世界を乗せ…」的な境地だとしたら~

世界と南郷氏は一体化した境地となり得ます。
その時、他人への批判、他の武術への批判…
それらは、己に南郷氏自身への警告・訓告…となりえます。


それを分からないから…
批判されたモノは、批判した南郷氏を不快に感じ、
批判されて事・事実を直視する事を避けてしまっていようです。


お宅の、どのような認識レベルで、南郷氏に何を期待しているのでしょうか?
それってもしかして…
高級服飾店へ行って、作業着・軍手・防寒着…を求め・期待している、ようなお宅なのかも…


>それでは命がかかってないというわけだ。
>防具の上から竹刀で100回叩こうとも死にもしなければ怪我もしない。それでは命がかかった武道でなくスポーツだ、と。


私コメント~
お宅には、「武道」の「武道への道」と「武道の道」の二重性が全くできていませんね
実際に「生命を賭けて闘う」なら、それは「武道の道」です。

さらに、「賭けるのは己の生命」であり、相手が「相手の生命を賭ける」とはが限りません。
例えば、相手は「一億円を賭けて」・「貧乏人のお宅はお宅の生命」を賭けた竹刀勝負も想定可能です。
この場合の「武技」とは、「竹刀術」であり、勝負心は「死即生的武道心」ですね。
トランプに負けたら「己の死」、相手に勝っても「相手の死」ではなく、お宅の「一億円の獲得」ですよ。
どうですか?生命を賭けた勝負=他人の死…とはなり得ません。





>だから南郷が少なくても本の中に書いていることを本当にやったなら死んでしまい得ることは間違いない。

私コメント~
だから、それは、「勝負論」の話、「武道の道」での勝負です。
全くもって…全く誤解している!
これで、よくもまあ~自由びとを低脳だと罵れるモノですね、



>お前が嘘をどれだけつこうが、そこは南郷の本を単行本化した三一書房の編集者にも確認を取ってある。確かに南郷は文筆家としてそのようなことを書いているが、それは南郷の団体内で実際に行われている事実ではなくフィクションだ、と。

>


私コメント~
「武道」とは、観念的な実態・実体で、現実に武道そのモノは存在しません。
空手即武道ではなく、空手の修業を武道として、武道的に修行する事が、武道・空手の修得・体得です。
初めから身体的に現実的に「生命的な危険がある練習・稽古」をするなら
、それは、お宅のような馬鹿ですよ。

この場合の「バカ」とは、上達論的練習・稽古と勝負論的な練習・稽古の区別が出来ない「馬鹿」です。
どこのバスケットコーチ・監督が「ダンクシュート」が最高・確実なシュートだから、と言って…
小学生らダンクシュートを練習させますか?


>お前は嘘に嘘を重ねている。京都の私淑している人(××××氏)が下位の色帯で退会しながらも南郷学派に私淑しているように、お前の発言の中には武道も武術もない。

私コメント~
だって、私が求めているのは、超一流の自由です。
その為に南郷弁証法の体得・修得を目指し~
武道・空手の体得・修得に求め~
南郷氏の「悟り・悟得」に求めています。

南郷氏の悟得境地とは以下です。
「己の死の覚悟=己の生」・「(己の生を求めて)己の死の覚悟=己の生」

この境地を体得できれば、空手技も柔道技…現代では武道と呼ばれている武技は不要です。
何故なら、己の死の覚悟が出切れで、周囲の全てモノが武器化・武器として駆使可能な精神状態となり得ます。

これは、道具を己の身体の一部として駆使可能な人類の「道具武器化心・精神」なのです。

それが、弁証法的な道具の使用法の一つでもありますが…
鉛筆で相手の急所を突けば致命傷。
小学校でも一年生が、時々ふざけて、鉛筆の先を友達に向けているのを目撃しますが…
それって…私からすれば「驚異」です。小学一年生で大の大人に致命傷を負わせられる…
これって…他の動物にない(道具が使える)人間だけの能力ですね。



>おそらくは武道の稽古は大してした事が無いのだろう。

私コメント~
ほれ!ほれ!

直接に武道を稽古する事は至難ですよ。

武道とは、[武技を用いての生命を賭けた勝負の道」ですから
空手技を武技としての稽古・修業の過程での武道・観念の修行なのです。

お宅の、いい加減な適当の超長文ですね。
教科書・ネットに書かれている事や他人言葉の盗用なら、
そのまま正確に書けるのに…
書かれていない事を、お宅の言葉で書こうとすると…
それもう~私から観ると支離滅裂ですね。



>武道の稽古をするときに死を考えるのは修行している人間ならば当然のことでしかない。なぜなら武道の技というのは相手を殺傷するように作られているのだから。

私コメント~

「死を考える」事と「現実の眼前の死を受け入れる」事は、別物ですよ。
そもそも…竹刀で一発叩かれて本当に「死ぬも思えますか?」

思えていて、簡単に前に出られて、打たれるのは何故?
だって…竹刀で撃たれた瞬間に「死」ですよ!
それこそ「進撃の巨人エレン」です。
彼は、仲間達から「死に急ぎ野郎!」と呼ばれています。

お宅の言葉には、
「死への恐怖」、「現実死の覚悟」、「現実死ぬ思いの体験」が感情がないのですね。



>弱い相手なら殺すこともなく手玉に取ることも可能であるが、自分と同等かそれ以上の相手ならば殺さなければ自分の身を守れないこともあるのは授業者ならば当然に知っていることでしかない。


私コメント~

お宅は時代錯誤ですね。
現代の何処の勝負に「負けたら死ぬ」、
「勝ったら相手の死」なんてモノがあり得ますか?

「武道の定義」は、「…勝負の道」ですよ。
そり道は、過去から現代の勝負への道です。
過去なら兎も角…現代で「生命賭けの勝負」は、現代日本では殆ど不可能です。
だから!そうであるからこそ~
現代社会で「観念的に生命賭け」が可能な認識・精神の養成・体得が、
「精神の最強化への道」なのです。


そもそも…勝負心・武道心…何も武道の勝負に限りません。
己の人生の過程での大勝負に、観念的な「死即生」は有効です。
本当にもう~何度も書くけど…お宅の「弁証法論理能力」は全くなし…ですね。

過去にも書きましたが、
普通に言われているでしょうが…
「必死」でやれ!
「人間死ぬ気になれば何でもできる!」
「死を覚悟してやれ!」
~そんな覚悟して現実に死んだ人間はいますか?


>それは現代の警察の仕事でも相手を射殺しても正当な義務上の行動だと判断されるのを見ても自明でしかない。

私コメント~
だから、と言って全ての警官が「仕事で相手を射殺」できますか?


>武道・武術の技は相手を殺せるものとして作り上げ、相手を殺せるものとして使うもの、当たり前の話しでしかない。

私コメント~
ほう~「当たり前」だったら、
現代の剣道家が、実際に真剣で相手を一刀両断できますか?


>お前の頭の中には武道は無い。お前が2chで空虚な文字を綴っても、それは武技でも武道でもない。

私コメント~

お宅の頭の中にあるのは、お宅の武道的な想い、空想・妄想ですね。
南郷氏の「武道の定義」も分からず…

偉そうに「武道」を語るお宅の姿には、自己満足の優越感が滲み出ていますよ。
まあ~どうぞ!そのまま!どうぞ!そのまま!自己陶酔して生きて下さいな!

どうぞ!自己満一杯のお宅帝国・世界で帝王して君臨していて下さい!






コメント (15)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「ある」の多重性 | トップ | ドゥルガーお宅へ »

15 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (ドゥルガー)
2022-01-11 19:07:07
いま少し時間が空いたのでアナタのコメントを読んでみました。
おそらく、アナタには何か言いたいこと、伝えたいことは無いのでしょう。

ですが、私はアナタへのコメントを書きながら昔読んだきりの南郷継正の『武道の理論』を想起して、それが単なる道場での稽古や体育館での試合を想定して書いているのではなく、「権力論」と二重になっていたことに気がつきました。

南郷さんは『試行』に登場する前に三浦つとむの自宅で滝村隆一さんと会った。その弱冠20代の滝村さんの論文に度肝を抜かれて憧れたのでしょうね。

滝村さんの「二重権力論」や「中国革命の理論」などを二重に重ねながら自らの大学空手部での指導などを語っています。明治維新の喩えなど持ち出しているのも、原口清の『日本近代国家の形成』や『戊辰戦争』を滝村が「権力移行論」「革命論」として高く評価していたのが影響したのは間違いないでしょう。

だから南郷さんの『武道の理論』は単なる現代武道の本ではなく「歴史的な武道」つまりは「権力の移行に武力が使われていた時代」を念頭において描かれた。

南郷さんには、自分が書いた原稿が滝村さんにどう反映するかが楽しみだったに違いありません。確かに嘗ての南郷さんは「他の誰にソッポを向かれようと滝村隆一ただ一人に認められたなら構わない」といったことを書いていましたが、それは単に自分の専門の武道論を「論理」という抽象性で高く評価してもらいたい、というのではなく見事に「権力論」が浸透した「権力、強力としての武道」なる内実を持っていました。

したがって南郷さんの初期の武道論は滝村隆一の「共同体-即-国家=広義の国家」たる「国家の起源たる征服の問題」を孕むこととなり、それが滝村の「社会構成理論」や「歴史的国家の理論」と浸透して
単なる現代武道ではなく「武の歴史」なる志向性をも孕んで
「征夷大将軍たる源頼朝による蝦夷討伐による京の都の天皇や貴族の支配領域の拡大」や「関ヶ原」「明治維新」といった「強力Gewalt」の問題まで拡大した。

つまり南郷さんの「武道の理論」という『試行』に連載された執筆は「単に自分の道場を如何に運営するか?」といった卑近な視点からではなく、三浦つとむや滝村隆一との邂逅から生み出された「創作、創造」の産物であり、滝村の「国家論、権力論」を裡に孕んだがゆえに「軍事」的な色彩をも帯びて一種独特な魅力を持つこととなった、と。

滝村隆一の「国家論、権力論」を内に孕んだがゆえに、南郷継正の武道論は道場で一対一の試合をしながらもアメリカと中国の対立や「非武装中立」、あるいは安全保障という他国に資金を支払いつつ自国を守ってもらうシステムなどを、宮本武蔵が『五輪書』に説いた如くに「武家の棟梁の兵法」として考えるものとなった。

以上、まあ、私自身はお宅の書いてることより私が考えたことのほうが面白味があるとは思っていますけれど、お宅がお宅の好きなように考えることの邪魔はしません。単に私が錯覚しているだけで、お宅は実際には馬鹿者ではないのかも知れませんからね。
返信する
お宅の中の南郷継正?! (自由びと)
2022-01-12 10:06:46
まあ~なかなか面白いですよ♪♪♪
お宅の中で、お宅が創像した「南郷氏認識」ですね。

私の感想としては、南郷氏の著書に出てくる言葉を、
お宅の認識の流れに即して並べた表現かな…

お宅の論理で南郷氏の言葉・単語を並べたモノ。
そんな感想ですね。



ところでお宅さん~
今、自分のコメントに自己陶酔していませんか?

それってヤバい事ですよ!
今のお宅に満足していたら、将来もずっと今のお宅のままですよ。
お宅は若者だそうですから、今のお宅のまま老人!なんて大変!
返信する
Unknown (tada)
2022-01-19 21:13:24
自由びとさん ドゥルガー氏 こんにちは tadaです。ド氏の南郷武道論の理解は全く見当違いのように思います。南郷武道論の魅力の根源を滝村国家論・権力論・ゲバルト論に求めていますが 直接は関係していないでしょう。南郷武道論の魅力とは教育論であり その上達論にあります。その時点での知力・体力・性別・年齢・学歴・職歴等を問わず 努力によって 今の自分を変えることができるという思想にあります。簡単にいえば だれも皆が 武道のみならず様々な分野で普遍的に「主体性の確立」ができるということです。ここが南郷武道論の素晴らしさ 魅力であり 様々な人々に影響を与え続けてきた理由なのです。単なるゲバルトはゴリラ武道とバカにしてきたはずです。原口先生の著作や滝村先生の二重権力論等をだして 文章を飾っても意味が通りません。ド氏の権威主義が現れているだけです。滝村先生はそういった物知り知識主義を嫌悪していました。ただ 国家起源に関して 外的国家を人間体から武道体への変化と相似的にみることはできます。しかし それが滝村先生の思想から南郷先生の武道論が生まれたとは言えない。南郷先生が「技」を概念化したことではじめて 滝村国家論と相似していると 結果言えるのです。
ド氏さん ハンドルネームをいろいろと使用していますね。しかし 文体が変わっているわけでもない。意味もなく 使われている様子が 権威主義同様 自信のなさの裏返しにしか 見えません。自分を大切に 「主体性の確立」をしてください。 
返信する
元気!元気!元気! (自由びと)
2022-01-20 17:56:28
tadaさん

コメントありがとうございます。
流石はtadaさんコメント~
とても勉強になります♪♪♪

「主体性の確立」いい言葉ですね。
最近の私が忘れかけていた言葉…。

>自分を大切に 「主体性の確立」をしてください。 

ありがとうございます。
とても心温まる言葉です。
どうも…最近「お宅言葉」に毒されて、
私心が冷えきっていた、ようですね。

バカの相手も程々にしないと…
バカはうつらなくても、
あの荒んだ心に毒されそうです。
返信する
Unknown (ドゥルガー)
2022-01-20 23:32:07
tadaさん、こんにちは。
 自由びとさんがご自分のブログだからと気に入らないコメントを削除する可能性が否定できませんから、私の投稿をtadaさんに読んで貰えるかは分かりません。
 私の考えを述べるならば確かに南郷さんの本には「主体性の確立」なる言葉は書いてあるわけです。ですが、南郷さんの武道に対する考えは「教育」では無いと私は思っています。
 それは武道の本質を「武技を用いた生命懸けの真剣勝負」と規定して、それを実際に実生活の如何なる場面で使うのかといったなら「街頭で暴漢に襲われたときの護身に使う」としているからなんです。これは直接的には「暴力」です。ですけれど「自らの生命、身体を守るために社会的に許されている」「正当防衛」という名の「例外的な暴力」です。
 そこが同じく体を鍛えて精神力を向上させる他のスポーツだとかと異なるところです。南郷さんは「武技」と書いていますけど、「剣術の技」は日本刀を用いて相手の身体を斬殺する技であり、「野球のピッチャーの技」はキャッチャー目がけてボールを投げてバッターに打たせないような技なわけです。
 ですので南郷さんは「武道を学ぶには高校生以上」との年齢制限を設けたのだと思いますし、義務教育以下の年齢では武道をやらずに他のスポーツなどのほうが良いと書いていたのだと考えられます。
 tadaさんの発言の中には南郷さんが説いているような「武道」は無く、他の「体育」の教育効果に話しをすり替えていると思います。学校教育において体育の授業中に逆上がりができない子が努力の上で逆上がりができるようになったなら、どれだけ自信になるでしょう。また、跳び箱が飛べない子が努力して飛べるようになったなら自信に繋がることでしょう。
 この時の「自信喪失」とは、「皆んなが出来ることが自分には出来ない」ということでしょうし、「自信回復」とは「自分も皆んなと同じことが出来る」ということでしょう。
 「教育」ということは国家的に取り組まれている重要な営みでしょうから「主体性の確立」なるものは南郷流の武道ばかりでなく文科省を頂点とする日本の教育の中にあるものでしょうね。ですが、文科省の教育要項では高校生=思春期に確立されるとされている「確固たる自我の確立」のために「命懸けの真剣勝負=武道」をやらねばならないとの見解は余り一般的ではありません。
 むしろ「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」として大学の教育学部の中に体育学科が収められているごとくに、その体育の一科目として武道もあるのが一般的です。
 南郷さんの武道論に「武技」と説かれた剣術や空手の技が「他者に危害を加えるものだ」ということの意味をtadaさんは理解していません。跳び箱や逆上がりをしても他人の身体が損なわれることは有りませんが、武道の技は他者の肉体を破壊するように出来ているからです。
 「主体性の確立」「確固たる自我の確立」を果たすのに他人の肉体を破壊しなければならない理由はありません。野球やバスケ、サッカーなどて身体を鍛え、シッカリとした自らの考えを持つならば主体性の確立は果たされるからです。
返信する
みなさんへ~! (自由びと)
2022-01-22 11:58:47
みなさんへ!

私が削除するコメントは、ここでのルールを守らないモノに限っています。
そのルールとは、「個人情報の記述」や「事実でないのに恰も事実のような記述」です。
それに思い込みの激しい・独りよがり記述…等です。
それらは、この「お宅」だけが、私の再三の警告を無視してやり続けている行為です。

全ては、この「お宅」自身の行為・自己責任であるにも関わらず…
それを
>「ご自分のブログだからと気に入らないコメントを削除する可能性が否定できませんから」
恰も「私が気に入らないコメント」だから…としています。
このように相手・他人の意図・認識・思い…を、その相手・他人レベルで理解しようとしない「お宅」には、何を書いても無駄のようですね。
返信する
Unknown (tada)
2022-01-22 23:26:32
ドゥルガーさんへ 
南郷先生の武道の定義はもちろん 急所に対する攻防の体系です。したがって 勝負よりも生死に関わってくるものです。ここから 南郷先生は上達論の必要性を感じたのです。防具の採用は最たるものです。受け技の必要性もそうです。段階を踏みながら レベルアップしていく いきなりの真剣勝負は無いわけです。その厳しい訓練修行のなかで 技を創りながら 精神を磨く スポーツも同じです。そのような思想がスポーツにあれば 南郷武道論の思想と同じです。つい昔のスポーツの指導に南郷武道論の思想がない 上達論(真剣勝負を前提にした)がないために 南郷先生は一世を風靡したのです。今はかなり指導教育に上達論が意識されていると思います。主体性の確立については だれでも遭遇する様々な真剣勝負的な問題・事件・状況(恋愛 仕事 受験に病気 その他エトセトラ)に南郷先生の教えが普遍的だ と申し上げているわけです。自らの知恵と勇気で立ち向かいなさい 立ち向かえるような人になりなさい 逆にかなわない対象と見切ったなら 逃げる柔軟さももちなさいと。 ドゥルガーさんは 何かにからみつかれてますね。 柔軟な考えができていない。
自由びとさん 自由な思考が大事ですよね。   
返信する
頑張ります! (自由びと)
2022-01-24 09:34:08
ありがとうございます tada さん~

「逃げる柔軟さ」と「自由な思考」…本当に大切ですよね。
視点・観点…角度を変えるなら、物事の価値・意義…は逆転しうるモノですものね…

また、その立場によっても、逆転しうるモノですし…
私の場合…頭で分かっていても、感情的になかなか納得し難いので…いつも反省の連続ですよ。
返信する
Unknown (ドゥルガー)
2022-01-24 09:52:55
 自由びとさんのブログ主としての姿勢に私は些か疑問を持っておりますが、それは一先ず置いておいて、tadaさんへの以下の投稿を掲載していただきたいと思います。

 tadaさんが南郷さんの『哲学・論理学原論』へ書いたアマゾンの書評を拝見しました。そこには南郷さんへの人格攻撃だとも受け取れる辛辣な舌鋒で「南郷継正は弁証法が分からなかったのだ!」と説いています。

 tadaさん曰く「弁証法は論理学であり、論理学・認識論・哲学・科学の順に弁証法の抽象度が変わっていくのである!」と。

 私はこの意見に賛同できかねます。南郷さんが「弁証法、認識論、論理学の区別と連関」なるものを説いているのは唯物論的弁証法の大家の一人ともされていたソ連建国の英雄たるレーニンの「弁証法、認識論、論理学は同じ一つのものであり、3つの異なる言葉は要らない」としたイワユル「哲学のレーニン的段階」への批判であり、その萌芽は三浦つとむの「弁証法と認識論は関連しつつも別の学である」という見解の拡張版でしょう。

 ですが、この「弁証法と論理学の区別」を南郷さんは著書で明確に説いてはいません。まあ、唯物論的弁証法=マルクス主義哲学の歴史において数多の論客が説いていますから、特に南郷さんが説いていなくても構わないわけですけど。

 私が考えるに、弁証法も論理学も「思考する、認識するための一つの方法」だと言って過言でないものですが、その時に「論理学」の核となる、根幹となるものは「同一律、矛盾律、排中律」の三本柱なんです。つまりは「同一律、AはAである」「矛盾律、Aは非Aでは無い」「排中律、AはBか非Bかのどちらかであり、中間というものは無い」という規則です。

 この「論理学」の「同一律、矛盾律、排中律」に則っていくからこそ「武道は武技を用いた生命賭けの真剣勝負」であり、「非「生命懸けの真剣勝負」=遊び」ではない、という回答に繋がっていくんです。

 ですから、三浦つとむが『弁証法はどういう科学か』で説いた「AはAで無い」「Aは非Aである」「AはBでもあり非Bでもある」ということは「論理学」の「同一律、矛盾律、排中律」の否定、つまりは「論理学の否定」なわけです。

 つまり、三浦つとむの『弁証法はどういう科学か』に説かれている言葉、マルクス主義の言葉でいったなら「論理学の核心たる同一律、矛盾律、排中律」というのは「限定された条件つきの狭い領域で通用する」法則・規則ということで、それを称して「形而上学的」だとエンゲルスは述べたわけです。

 ですが、エンゲルスは相互浸透について「ヘーゲルの『大論理学』の本質論の核心だ」と説いているらしく、その「『大論理学』本質論」には「本質と現象の相互浸透」つまりは個別科学との相互浸透によってアリストテレスの形而上学が変化していく様が説かれている「らしい」のですよね。噂の域を超えませんけどね。

 tadaさんが卑劣な人格攻撃だけしてトンづらする人間でなければ、私のコメントに返答して貰えますか?
 
返信する
Unknown (tada)
2022-01-26 20:01:28
ドゥルガーさんへ 
コメント何回も読み込みましたが 何を言っているのか 問題の核心がわかりません。もう少し文章修行をなされたほうがよろしいかと思います。ともあれ 南郷武道論についてはどうしましたか?武道論を理解できないままだと仮定すれば おそらく 南郷弁証法の問題点に対しても到底 理解できないと思います。これは 原理的な部分ですから 個別学問を探求する中から 実感として弁証法の真の姿を見るしかないものなのです。説明しても実証的にはわからないのです。残念ですが ここまでがあなたの実力ではないでしょうか。面白いコメントがあれば また コメント入力しますので 精進してください。 
それではまた 忍法トンズラの術だ。 ドロン ドロン。
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

滅ぼし合う対立物の統一」カテゴリの最新記事