新・悟りを求めて~

自由が故に退屈化し得る現代社会での日々へ、
新たな刺激を与えるべく、新たにブログ開設を…

私も「概念の労苦」に挑戦!

2018-09-25 11:53:31 | 弁証法



談話サロン天寿堂掲示板で展開されている
[2924]【南郷先生の錯覚にもとづく壮大なる徒労】について、
私も「概念の労苦」にチャレンジしてみようと思い、
この記事をアップする。


初め、読もうと一目見た時、
『いや~文字が多すぎ…』~
『~大変そう』~
と一度は止めてしまった。

でも、それでも「錯覚」、「壮大なる徒労」…
といった文字に惹かれて再度の挑戦である。


さて…

先ずは以下の疑問からである。


>南郷先生は、ヘーゲルの志だけ受け継いで、肝心のヘーゲルの学問体系を捨ててしまいました。


南郷氏の「学問体系」、
愚案くんの「学問体系」、
ヘーゲルの「学問体系」、
これら、全てが同じ像「学問体系」なのだろうか?

愚案くんは、それらの相違を知った・分かった・識った…上で書いているのだろうか?



>つまり、南郷先生は、ヘーゲルを受け継ぐと云いながら、ヘーゲルの志だけ受け継いで、肝心のヘーゲルの学問の方を捨ててしまって、受け継いでいないのです。


ヘーゲルの学問像と愚案くんの像は一致しているのか?
仮に一致していたとして、
絶対精神の自己発展で説かれたそヘーゲルの学問が、
誰にでも習得・修得・体得可能か?

ヘーゲルの個人的な観念論的学問像を、
誰にでも理解可能な唯物論的像への変換が必要なのでは?

唯物論では、誰にでも理解可能な学問像が求められるが、
観念論なら、己さえ理解していれば、その表現は自由なのでは?

同じモノ・コトの像が観念論も唯物論も同一なのだろうか?
また、その同じモノ・コトの表現・言葉…も同一なのだろうか?


絶対的観念論者は、己の説いて・書いているモノは絶対的に正しい、と思い込んでいる。
しかし、その表現は他者理解の為である筈、ならば、それは唯物論的であろう…

そもそも…
唯物論的に説かれている「南郷氏の認識」を、
絶対的観念論者の愚案くんは理解しているのだろうか?

その理解方法とは、<即自的存在とか対自的存在、自己同一性>である筈…
ヘーゲル哲学を肯定している自分<即自的自己>があり、
南郷氏の認識を否定している自分<対自的自己>がある。

二つの自己を自らの発展の為に<自己同一性>化する為には、
ヘーゲル絶対の自己で南郷氏絶対否定の自己を潰す事であろう。

その理由は、
観念論は、いくら頑張っても個人技。
唯物論は、人によっては一般技になり得るモノ。だから…















>不思議なことに、ヘーゲルの書を一生懸命まじめに研究しているどの人よりも、ヘーゲルの云わんとしていることが分かるようなのです。それは事実として、この談論サロンで展開してきた内容を読んでもらえば了解してもらえると思います。


この『分かるよう…』が、単なる愚案くんの思い込みでない証明は?
それは、ヘーゲルの言説からではなく、唯物論的な解説・一致なのでは?















>その元・土台となったのが、ヘーゲルとは関係なしに、自力で、唯物論の<相対的真理>根本論を大転回して、絶対的真理を根本として相対的真理をその構造とする真理論へと変えたことです。


この「真理論」が真理である証明・根拠は?














> 悠季真理先生は、唯物論の悪弊ですべて論理は事実から順番に這い上がっていくものとの思い込みから、このような解釈をしているのですが、これは全く違います。アリストテレスは、まさに自ら創り上げた<学問の冠石>つまり形而上学から「概念の労苦」を通して、事実的論理との相互浸透を図って時代の学問を創り上げていった、その過程を歩んでいたという事実を、この叙述は物語っているのです。

↑~
ここに書かれている「事実的論理」は、どのように生まれているの?

事実は事実で論理ではない。
それらの事実との関わり方の相違は?
観念論的か?唯物論的か?その相違は?











> ヘーゲルは、それをギリシャ哲学の三側面として論理化しています。

<抽象的悟性>→<否定的理性(弁証法)>→<肯定的理性(統体思弁)>

 解説しますと、抽象的悟性は形而下の世界の事実的論理であり、否定的理性はエレア派のパルメニデスやゼノンの世界全体の論理であり、統体思弁の肯定的理性は、その両者を概念の労苦によって統体止揚して一体化して体系づけることを云います。アリストテレスは、まさにその作業をしていたわけなのです。ところが、そういう事実を前にしても、ヘーゲルを否定して、唯物論にアタマが囚われてしまっているから、このような恣意的な誤った解釈をしてしまうのです。、



↑~
<抽象的悟性>は、どこから・どのように生じるの?
<否定的理性(弁証法)>が、本当に正しい「否定」である根拠?
この二つが間違っていれば、<肯定的理性(統体思弁)>はどうなるの?















>どういうことかと云いますと、唯物論は絶対的真理を認めないから、観念論的な絶対的真理の系譜・潮流を、そもそも認めるわけにはいかないので、カケラとして扱うしかなかった、ということです。さらに言えば、合宿での闘論とか、本読み奴隷の量質転化が、弁証法的な論理能力を作ったという物質的原因ばかりに注目して、肝心の観念の中身自体の発展を見ようとしない、という唯物論的な方法論の欠陥が作り上げたその弁証法形成の歴史過程論に、パルメニデスとゼノンを位置づけられなかった結果ともいえます。だから、カケラとして扱うしかなかった、ということだと思います。つまり、南郷学派の弁証法形成の歴史過程論は、現実とあっていないということをこの事実は示しています。



↑~
「観念の中身自体の発展」が、正しい「発展」である条件は?
「発展」は、変化である。
その変化が、真の発展・変化である、の証拠は?


















>と云いますのは、細かい生命の歴史の論理までは究明していなかったにもかかわらず、ヘーゲルは、<生命ー認識―学問>という弁証法的な三項の発展の論理を見事に措定しているからです。これが如何に見事かは、後世の南郷学派の生命の歴史論の発展を、自らの構造と化して発展できる発展性を持っている点に在ります。具体的に云いますと、生命の遺伝子の体系性に支えられた本能が、一旦否定されて、発展性のある認識に置き換えられ、その認識の発展によって、即自的な遺伝子の体系性が、認識の発展を通じて対自的な体系性を持つ概念となって、「概念の労苦」を積み重ねていった結果として、学問の体系化が完成して、即自的な絶対精神が、対自的な絶対理念へと発展すると直接に自らに回帰する、という具合にその構造がどんどん進化してく見事さなのです。


↑~
「生命の遺伝子の体系性に支えられた本能」とは?
「…一旦否定されて、発展性のある認識に置き換えられ…」
の具体的な置き換え方とは?

「その認識の発展」とは、どのような発展?
だれもが、そのような発展が可能なの?

まだまだ…あるが…
こんな・そんな疑問を投げかければ…切りがない。
例え、愚案くんが、絶対的に正しかったとしても、
その記述を読み解いても、
絶対的に全く正しい生き方・生活…
そんな日々が送れるとは思い難い!
















>[2928] 【「概念の労苦」によって「精神の王国」は更新・発展」する】
> いきなりの閑話休題ですが、何か誤解されているようですが、私は唯物論を否定してはいません。観念論を否定して唯物論だけで学問を創ろうとしていることに対して、異を唱えているだけです。そして、それが如何に間違いかを証明するために、唯物論だけだとこのように学問の歴史を正しくとらえられず、歪めてしまうことになる、という南郷学派が実際に犯している誤謬を指摘したのです。

↑~

あれ・れ…
南郷氏は、世界観としての観念論は否定していても…
世界観としての唯物論の保持を元に、その自らの観念を駆使しての論理展開は肯定しています。
愚案くんの認識内では、
世界観としての観念論と観念を駆使した論(観念論)がゴチャゴチャなのかも?
















> しかし、この滝村先生の評価は、マルクス主義の形而上学的発展史観に囚われた、まさに物理的・物質的要因を歴史の原動力と見て肝心な点を見ようとしない、唯物論者特有の欠陥がもろに現われたものです。では、その肝心な点とは一体何か?それは、日本は、「和を以て貴しとなす」という国家理念を憲法として国創りを行った、国家の本質論に則った世界で唯一の国だということです。しかも、その憲法制定は、近代国家を世界で最初に作ったと云われている西洋の憲法制定(それも本来の憲法とは程遠いものでしかなかった)よりも六白年も早かった、というまさに異次元の凄さでした。
>天下の国家論学者ともあろう者が、このような国家論の特筆すべき事実を知っていながら、ガラパゴスなどと、あたかも歴史に取り残されたような評価のしかたをするというのは、考えられないことであり、学者生命をゆるがしかねないレベルの失態!といっても過言ではないと思います。その原因は唯物論にあります。その唯物論が、ヘーゲルを学んでも、ヘーゲルを正しく吸収できなくしてしまうからです。

↑~「ガラパゴス…」とは、
世界的な激しい変化的な環境から隔離された、
世界とは異なった安定した変化の環境、という事で、
決して「歴史に取り残された」ではない、と私は理解しています。


それは、世界歴史とは、異なった歴史的発展をしたモノです。
ただ…そんな異なった環境での発展だから、
周囲・環境の状況が激しくなれば、その安定は崩れゆく宿命という事。


例えば、温室で育った植物は、どんなに美味しくても、
温室の外へ出されれば、全く異なったモノになり得る、というモノ。

そんな理解が愚案くんにはでき難いのでしょう。


これも、「絶対的観念論」とか言って、
他者の言葉を唯物論的に理解していない罰ですね、



















> では、観念論からこれを見ますとどうなるかと云いますと、全体を統括する一般論=学問の冠石=概念を主体と見ますから、まず最初に、これが生まれますが、こっれはまだ中身が空っぽですので、その中身となるべき事実の論理の成熟を待ってじっと待機しています。ある程度事実の論理が成熟しますと、学問の冠石は、そろそろとそのままでは全体の一部にはなれないよと否定的な干渉をはじめます。これによって、定有が対自有へとへと変化して、全体に組み込まれる準備が整っていきます。
>一方で、論理の論理である本質論の方も、部分性の全体と全体性の部分との統一が図られて組み込まれる準備が着々と進行していくことになります。その結果として、有論の中身と本質論の中身とが統一されて概念の実質となり、構造となった時、即自的な概念は対自的な概念へと更新されバージョンアップされて、発展していくことになります。

> これが本当の「概念の労苦」なのです。つまり、これらの一連の作業は、概念の統括の下に行われるということであり、それを論ずるのが概念論なのです。つまり、概念論は、概念が、概念の労苦を通じて学問体系として発展していって、絶対理念へと至る道筋を説くものなのです。ですから、南郷先生が批判した訳者の注の方が正しいのです。参考にその訳者の注を引用してみましょう。

>「ヘーゲルが『概念』という時、この言葉は非常に強い意味をもつ。事物について我々が抱いている一般観念とか、あれこれの言葉について辞書に書かれているような意味内容と言ったことにつきるのではなく、事物自身の内的本質とその関連を表わし、ほとんど、事物を構成している原理そのものと考えられる。やがて論ぜられるように、こうした概念の自己運動を把握することが、すぐれた意味での『学問』だというのである。」


> これは全くその通りです。なぜそれが分かるかといいますと、私自身その概念すなわち「精神の王国」を自らのアタマの中に創り上げることに成功したからです。すると、はじめは、直観的に捉えていたものが、その不動の骨格の下にその細部の構造が、自己運動のように概念の労苦によって、くっきりと明らかにされていくからです。これには自分でも驚きます。こういう観念論的な表現は決して間違いではないのです。否、むしろそうでなければ正しく表現できないものなのです。ヘーゲルは「大論理学」の序にそのことを書いています。つまり、まだ中身が何もないから思惟によって創られた現実性のない学問の冠石しか書けない、しかし、これが、基本的な骨格となり、これから概念の労苦によって中身が創られていくことになる、ということを述べています。

>個別科学が事実の究明を充分に明らかにしている今こそ、本当の意味での「概念の労苦」が可能な時代になっているのに、肝心の南郷学派が、「概念の労苦」は概念の論理化のことである、などと言っているようでは、何時まで経っても本物の学問の体系化など無理な話です。南郷先生は、認識学への修学なしには学問の体系化はないと豪語されていますが、概念=精神の王国も解けない認識学で果たして可能なのか?……









↑~
いや~「概念の労苦」とは非常に疲れるモノである。
私の場合、南郷継正的南郷氏私なので、
南郷氏否定の言葉の数々を読み続けるだけでも疲労困憊である。


絶対的観念論も絶対的真理も…
初めに絶対的に正しい観念・真理ありき。

でも…しかし…です。
ちっぽけな一人の人間が、
初めからそんな境地に到達できるのでしょうか?

確かに、歴史を歴史的に学べば可能なのかもしれません。
それでも…初めから完璧に歴史を歴史から学べるモノなのでしょうか?

人は、学んでも、学んでも…
絶対的に正しい真理に到達不能だと私は確信しています。

絶対的真理は、無限のモノ・コトの真理であり、
有限な人間には、無限のモノ・コトを絶対的に正しく理解不能です。
人・人類に出来る事は、
その絶対的真理へ到達し続ける労苦、
そう「概念の労苦」なのです。

絶対的真理とは、無限の相対的真理を集め切った時、
初めて形成されるモノなのでしょう。

だから、有限の人間には無理無理なのです。



これは、「ゼノンの絶対矛盾」なのです。
確かに、絶対的真理はある。
しかし、人類には体得不能。
だから、「ある」かつ「ない」絶対的真理。
なので、「絶対矛盾」なので~す。


そこを実感し得ない愚案くんに、変化・発達はあり得ても、
今以上の真の発展的変化は不能なのでしょう。


自己を完璧だと確信し切った老人に、
幼子のような未来発展はないだろう。

果たして、
老人化しつつある、
自称永遠の若者の私に、
明るい発展的未来はあるのか?
















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