毎日のように通っていてもなかなか写真を撮るために寄らなかった、、、
城下町のなかに気づきを求めて、しっかり歩かなくちゃ!
伊賀市役所が四十九に引っ越してから、なんとなく元気がなさそうに見えるまちなかのそこかしこ、
このまま埋もれてしまうのではないかと気になりますが、さて
ワタシに何ができようか?
伊賀市上野中町の中町公民館と中町桜車(だんじり)蔵の間に、万吉稲荷神社があります。
普段は、手前が駐車場になっていて、その奥にあるのでちょっと見つけにくい!のがまたいい
【万吉稲荷神社】(まんきちいなりじんじゃ)
小さくてかわいい龍さん
≪この神社は、明治3年(1870年)12月に神託により、大阪から遷ってきた神社です。
その由来は、豊臣秀頼の家臣であった木村長門守重成の邸宅の鎮守であったものが、
元和元年(1615年)の大坂夏の陣で重成が討ち死にした後、
その地が藤堂藩蔵屋敷※となったことにさかのぼります。
現在の大阪市北区、造幣局の北方がその地で、江戸時代を通じて大阪に鎮座していました。
時は明治維新、その地が造幣局設置のため官有となるにいたり、
同神社は上野中町の教諭所(現在地にあった教育施設)内へと遷座したのです。
明治43年(1910年)から戦後まで、国の政策によって上野東町の菅原神社(上野天神宮)に合祀された時期もありました。
しかし伊賀上野の人々による崇拝は絶えることがありませんでしたので、元の地へ戻ってきた現在では、
毎月12日午後3時より祭典が上野中町の住民を中心に行われています。
また12月12日には「お火炊き祭」、3月吉日には「初午祭」がおこなわれています。≫ 上野せいぶ探訪より
なお、「藤堂藩蔵屋敷」のリンクは『戦国歩こう』さんのブログになります。
世の中、ほんとによく研究されている方がいらっしゃいます、素晴らしいです。とても勉強になりました。
(何も勉強していないワタシが書くのはとてもおこがましいので、リンクをお読みいただければ有難い)

お百度石の横に遷座された理由が書かれています☆、
ちょっと覗かせていただいた狐さんたち。
上野天神祭のだんじり蔵とともに、町の皆さんに愛されているお稲荷さんであることがよくわかります。
中町だんじり:【其神山・葵鉾】
8/9 追記
☆ブログ「伊賀へいらっしゃい」より
當稲荷神社舊為木村長門守大阪
川崎邸之鎮守大阪役後同邸為旧
藩主藤堂高虎公之有而復為同家
之鎮守爾来為大阪民衆之所尊栄
神威輝干同都明治三年冬同邸為
当稲荷神社旧なす(前には)木村長門守(奇しくも大坂の陣の対戦相手)
大坂川崎邸に鎮守されていたため大坂の陣の後
藩主藤堂高虎公が、うじふくい(もどすため、廃社されていたかと思われます)同家に
鎮守、爾来じらい(いらい)大坂民衆の崇栄
神威輝なすところ明治三年冬同邸に
官有置造幣局時因神託遷座于此
地遠近人民尊崇年盛矣同四十三
年三月十六日依内務省令合祀菅
原相殿愛刻此記傅干後世
藪内竹堂謹書
造幣局を置き官有となる時神託によりこの地(上野地区)に遷座
近遠人民の尊崇盛んなり
明治四十三年内務省令(一村一社令)で
菅原神社に合祀、後世に伝えるためこれに記し刻む
城下町のなかに気づきを求めて、しっかり歩かなくちゃ!
伊賀市役所が四十九に引っ越してから、なんとなく元気がなさそうに見えるまちなかのそこかしこ、
このまま埋もれてしまうのではないかと気になりますが、さて
ワタシに何ができようか?
伊賀市上野中町の中町公民館と中町桜車(だんじり)蔵の間に、万吉稲荷神社があります。
普段は、手前が駐車場になっていて、その奥にあるのでちょっと見つけにくい!のがまたいい

【万吉稲荷神社】(まんきちいなりじんじゃ)




≪この神社は、明治3年(1870年)12月に神託により、大阪から遷ってきた神社です。
その由来は、豊臣秀頼の家臣であった木村長門守重成の邸宅の鎮守であったものが、
元和元年(1615年)の大坂夏の陣で重成が討ち死にした後、
その地が藤堂藩蔵屋敷※となったことにさかのぼります。
現在の大阪市北区、造幣局の北方がその地で、江戸時代を通じて大阪に鎮座していました。
時は明治維新、その地が造幣局設置のため官有となるにいたり、
同神社は上野中町の教諭所(現在地にあった教育施設)内へと遷座したのです。
明治43年(1910年)から戦後まで、国の政策によって上野東町の菅原神社(上野天神宮)に合祀された時期もありました。
しかし伊賀上野の人々による崇拝は絶えることがありませんでしたので、元の地へ戻ってきた現在では、
毎月12日午後3時より祭典が上野中町の住民を中心に行われています。
また12月12日には「お火炊き祭」、3月吉日には「初午祭」がおこなわれています。≫ 上野せいぶ探訪より
なお、「藤堂藩蔵屋敷」のリンクは『戦国歩こう』さんのブログになります。
世の中、ほんとによく研究されている方がいらっしゃいます、素晴らしいです。とても勉強になりました。
(何も勉強していないワタシが書くのはとてもおこがましいので、リンクをお読みいただければ有難い)



お百度石の横に遷座された理由が書かれています☆、
ちょっと覗かせていただいた狐さんたち。
上野天神祭のだんじり蔵とともに、町の皆さんに愛されているお稲荷さんであることがよくわかります。
中町だんじり:【其神山・葵鉾】
8/9 追記
☆ブログ「伊賀へいらっしゃい」より
當稲荷神社舊為木村長門守大阪
川崎邸之鎮守大阪役後同邸為旧
藩主藤堂高虎公之有而復為同家
之鎮守爾来為大阪民衆之所尊栄
神威輝干同都明治三年冬同邸為
当稲荷神社旧なす(前には)木村長門守(奇しくも大坂の陣の対戦相手)
大坂川崎邸に鎮守されていたため大坂の陣の後
藩主藤堂高虎公が、うじふくい(もどすため、廃社されていたかと思われます)同家に
鎮守、爾来じらい(いらい)大坂民衆の崇栄
神威輝なすところ明治三年冬同邸に
官有置造幣局時因神託遷座于此
地遠近人民尊崇年盛矣同四十三
年三月十六日依内務省令合祀菅
原相殿愛刻此記傅干後世
藪内竹堂謹書
造幣局を置き官有となる時神託によりこの地(上野地区)に遷座
近遠人民の尊崇盛んなり
明治四十三年内務省令(一村一社令)で
菅原神社に合祀、後世に伝えるためこれに記し刻む