伊賀国・島ケ原山菅(ヤマスゲ)「関所跡」から山城の国へ

2020-08-20 11:03:33 | 南山城村へ行ったよ
お茶と野菜を求めにドライブしてしまいました  、8/16(日)の午後の話…
(日を間違えていました、スミマセン 8/21 0:15訂正)

「南山城・道の駅」へ、15時30分ごろ着いたのですが駐車場はほぼ満車! お客様いっぱい!
売店の中「蜜」になりそうなので、冷たくて美味しそうな「村茶屋のかき氷」を買って、車の中で食べることに…
濃厚な抹茶の風味が大人の味 (食べるのに夢中で写真はなし

さて、歴史的にここら辺(山城~島ケ原辺り)は【大和街道】伊賀・山城国境の地になりましょうか。

≪大和街道・伊賀街道が通る伊賀国は、伊勢・近江・山城・大和の国々に囲まれた山国で、
上野盆地に入るためには、どの道を通っても険しい山を越えなければならなかったと同時に、
伊賀国を通らなければ相互の連絡に不自由するという交通の要衝であった。≫(大和街道の説明による)


何度も行っている「道の駅」ですが、
いつも通り過ぎるだけの島ケ原・山菅地区には歴史的なものが多く残されている、みたいなのです。
そういえば、訪れたことがないなぁと(好奇心の芽生えで)寄ってみることに…
 「島ケ原宿地図」の左半分辺り
(ワタシの頭の中では、国境近くの「関所跡」を見て、そこから京都南山城に出て、ダムだむ…

「南山城・道の駅」から163号線を東へ戻ること2・3分、大きなカーブを曲がり切った辺りで「右折」、
曲がるとすぐ(カーナビが)「大きく左に曲がります 」とさ、その通りほぼ鋭角に曲がると、
すぐそこに「関所跡」などいろいろ歴史の宝庫っぽいです。
 説明版
↓  街道の南側
    
「大和街道道標的石柱」
石段の上が北向不動明王さまでしょうか?(お顔が見えなかったので…)、
そのお隣の祠は、北向地蔵さまかと思われます、お顔がやさしかった。(山菅地区の方、間違ってたらごめんなさい)

↓  街道の北側
    
「八幡宮遥拝所」や「観世音菩薩」さま、そして「山菅地区老人クラブ会館」があります、
きっと地区の皆さんがお世話をしてくださっているのだと思います。

ここから、ほんの少し西へ下ると「大和街道・藤堂藩関所跡」です。
(言い換えれば通り過ぎてきたわけです
  
想像するに、国境の関所ですから立派な建物があったのかなぁ~~と(タイムカプセルで行って、見てみたいような(笑))

 「二本杭・南山城」へ向かいます
街道を500mほど西へ下ると

山菅地区(伊賀の国)と京都(山城の国)の境目の「二本杭※」です。
民家の傍にありますので撮影には注意が必要かと…

≪※江戸時代前期の元禄時代(1688~1704年)、将軍綱吉は全国の絵図作成事業を命じました。
江戸幕府として3回目の絵図作成です。前2回と異なり、厳密な作業をおこなったため、
それまではなんとなく過ごしてきたあいまいな国境が、大きな紛争となりました。

北大河原村(現在の南山城村、当時は山城国)と、島ヶ原村(現在の三重県伊賀市、当時は伊賀国)とで
主張が食い違い、お互いの話し合いでは決着がつかず、元禄12(1699)年に、江戸幕府へ出訴するにいたりました。
幕府評定所で取り調べがおこなわれ、検使派遣による現地調査によって、
両者の主張がしりぞけられ、この地に杭が打たれました。

江戸時代には木の杭でしたが、明治19(1886)年に石柱に作り直されました。
「従是西山城国」は現在の二本杭の場所(旧大和街道)に、「従是東伊賀国」は新大和街道に建てられました。
平成15(2003)年に、「従是東伊賀国」が二本杭の場所へ建てられ、二本杭とされています。≫
南山城村体験観光推進協議会より

この杭から500mほど山道を下ると京都今山地区の民家が現れます。
(林道ではありませんがいかにも街道だなぁという感じで、やや車対抗困難道でした
 当たり前ですよね、昔は車なんて存在しませんから…)
今山地区最西端から道なりに下っていくと府道82号線に出ます、やっと2車線道路です

大和街道・伊賀山城国境編はここらでお終い、次は「ダムだむ」道へ
予告編地図 
コメント
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