険道42号線伊賀越道を下りたらそこは伊勢國、その2。「落合の郷」「成覚寺」維盛伝説地。

2024-09-21 00:50:23 | つれづれ思うまま
前知識もなく、なんの勉強もせずに伊賀の西端から峠道(「伊賀越」というらしい)を下りた先は…

帰ってから調べたところ、旧「三重県安濃郡河内村」だそうな。
布引山地を横断?するように進んだわけで、当然川の流れは「伊勢湾へ」。
伊賀と津の境の峠道を下る途中、山の中腹部にお家が2・3軒ありました。
流石にここは空き家でしょ…と思いましたが、なんと自動車が停まっておりました。(失礼しました)
なにせ、ここまで杉や雑木の林を抜ける一本道だったもので、急に家があると です。
まさに「ポツンと一軒家」に出ても不思議ではないような…(と、運転手が申しておりました(笑))
川沿いに下りてきたのですが、さて地図で見ても川の名前はわかりません…
この山から流れる川筋は何本もあって、丁度合流した辺りで「安濃川」となるようです。

公的?建物としては、下の二つの神社とお寺があります。
  
春晃山澄源寺】(チョウゲンジ)/真宗高田派
小川内神社】(オカワチジンジャ/読み方は平凡社・三重県の地名より)
<奥芸濃町河内南之垣内/コウチミナミノカイト
河内の南之垣内集落の下流、安濃川左岸にある。
旧村社。祭神は天穂日命と八所御霊神をはじめ多数の神を合祀する。
古来河内明神とよび、(中略)安濃川水源の神であるが、
古くより祭礼に騎射の神事があった(三国地志)>とのこと。
※騎射=流鏑馬のことと思われます。

伊賀越峠道図

 googleではここを下りてきた

その先、さらに川沿いに進んで道の分岐に差し掛かる。
この辺りの地区は「芸濃町河内村」(Wikipediaより)というらしい。
以外や、キャンプ場などの看板などが見えたのですが、それよりまさかのこの案内版、
 
「(徳川家康の側室)於奈津」生誕地、「平維盛」、「平家伝承地」とか・・・
『落合の里に清雲院於奈津誕生
伊勢の清流、安濃川の水源、落合の里は源平合戦の昔、西海長門の壇之浦て敗れた平家の一族が隠棲した所。
近くの成覚寺は小松三位中将平維盛の開基と伝えられ、尊像や墓碑が祀られている。
また南郊には天下泰平に尽くした徳川家康の側室, 清雲院於奈津の出生地がある。
於奈津は天正九年(1581)、当地に生まれ、翌年の本能寺の変のあと、
伊賀越えをした家康と出会ったとも伝わるが、京都・二条城で家康を刺客から救った功績で
側室に召された。江戸城三の丸に屋敷と中野村五百石を賜り、関ヶ原合戦や
大坂冬夏の陣にも従軍。安濃津城主藤堂和泉守高虎ら 六人衆と共に幕政を助け、
のち秀忠・家光にも仕え、 伊勢商人の江戸進出を援助した。』
於奈津(Wikipediaより)

ここがいつの頃からか気になっていた、平家落人伝説の残る「落合」なのか、と。
これは気になる、この「岩間山 成覚寺(ジョウカクジ)」是非伺わねば。
ということでキャンプ場の見学よりこちら優先で、
路駐できそうな道幅だったので、車を停め、スゴイ激坂を上った先には…
  



本堂前で女性ご住職の方にお目にかかり、ぜひお上がりくださいと本堂に参らせていただき、
 
「ここは伊勢平氏伝説の残る地で、屋島の戦いで敗れた平維盛公は、
那智沖で入水したように見せかけてこの地に31人の家来と共に隠れ住みました。
31人の家来たちは皆『落合姓』を名乗り、この地で生き抜いてきた。
(清盛の孫)維盛のお墓もあります。また維盛は大層なイケメンだったとか…」
そんな伝説が残る地なんですとのお話を伺い、またお堂の格天井にはなんと
  
「桓武平氏の家紋/丸に揚羽蝶」「落合家の家紋/扇に日の丸」が。
お堂の裏手に回ると「平維盛の墓」「梛(ナギ)の木」など。
  
」は、以前「清盛のお父さんの忠盛の産湯地」を訪ねた折にも見たので、
これも何かのご縁かと驚いた次第。

また「天水受」にも『扇に日の丸』、
その中にはなんと「モリアオガエル」のオタマジャクシがいっぱい!
これもなかなか希少なカエルちゃん、初めてお目にかかったのでこれまた何かのご縁。
目が合って、嬉しかったです、可愛い💗(※ちなみに卵はコレ
  

お寺を後にする時、教えてもらったのがココ、

ここは「神君伊賀越え、もう一つの道だった」かも、とのこと。
それでこの険道は「伊賀越」という別名が付いているのか?とは勝手な想像です、あしからず。

そして、てんこ盛りの話のついでに…
※全国至る所に、平家の落人伝説』(Wikipediaより)はあるそうで、ここもその一つ。
 山深いところです。

平忠盛(小倉山荘より)

家族連れにおススメは、
※『落合の郷』:大きな駐車場もあって、支流の川岸に親水公園もあって、 バーべキューなども楽しめるみたい、ですよ。
この「落合の郷」へ来るには、もう一つ極道があるらしい、
moni5187様に教えられた道は、こんな道「柚之木峠越」もあるそうですよ。
 
加太駅で見た「錫杖岳への地図」にもありました。

さぁ、これから安濃川沿いに進みます。
ではまた

「梛」について追記(2024/9/21 10:30)、
成覚寺を訪問した際に「梛」の説明を受け、雌雄一枚ずついただいてきました。
雌雄が揃っていないと実がつきません、銀杏や冬青(ソヨゴ)も同じですね。(ほかにもあると思いますがワタシの知る限り…)
 葉脈を見て!
見るだけではそんなに変わりはないけれど「葉脈」がミソで、
樹木の中で葉脈が「縦」に入っているのはなかなか珍しい、とのこと。
調べていて見つけたblogに詳しい説明がありましたので、リンクさせていただきます。
『「縁結びと厄除け」の梛の葉(奈良佐保大学教職員blogより)

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3 コメント

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訂正です (moni5187)
2024-09-21 21:10:49
誤 安濃町側
正 芸濃町側

安濃ダムに着目してしまい安濃町だと思い込んでいました。1980年の時点では関町と芸濃町の境界でした。
人道の柚之木峠への登りは、かつての御斎峠の様だったのではと、想像だけしてます。
返信する
山に囲まれた (kuro&hana)
2024-09-21 18:13:37
>moni5187 さんへ
>林道柚ノ木越線... への返信
伊賀国のこと、多分こういう道はそこかしこいっぱいあったんだろうなぁと思いました。
山を越えなければどこにも行けなかった時代の獣道のような道さえも海のもの、山のものが行き交っていたのではないかと思いますよね。

今は流石に歩いてはよぉ行きませんが、登山家なら「そこに山がある限り」行かれるのでしょう。
そんな道、一人ではとても行けませんが、地図で探す楽しみは残しておきたいものです。

moni5187さま、コメントありがとうございます。
返信する
林道柚ノ木越線 (moni5187)
2024-09-21 12:40:03
を走った。としていますが、肝心な裏付けを忘れていました。国土地理院の地形図(低解像度ながら道路の有無は判別可)で、年を追って確認しますと。人道(登山道)の柚之木峠は古くから描かれていました。後のこの車道(林道)は、2.5万地形図-平松-1976では、(新)柚ノ木峠まで、関町側は描かれていて安濃町側は描かれておらずでした。同-1980では、安濃町側からも(新)柚ノ木峠まで描かれていました。当方がクルマの免許を取ったのは、この年以降ですから、ほぼ間違いなさそうです。安濃ダムの本体工事着工は1981年で芸濃I.C.の開通も同年とのこと。向井I.C.からの迂回路として開通した可能性もあるかと思います。
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