今日は親父の三回忌でした。
もう親父が死んで二年も経つのかという気もするし、まだ二年しか経ってないのかという気もします。
自分と親父は不思議な関係でした。
一つ例を挙げると、兄貴は親父から将棋を習い、そして自分は兄貴から将棋を習い、親父は毎週欠かさずNHKの将棋の対局を観戦し、自分もそれに付き合うことが多かったというのに、自分と一度として親父と対戦したことがありませんでした。
たまに自分が将棋をしようと持ちかけても親父は何やかやと理由をつけて対戦を拒みました。
不思議でしょう?
他にも二人の共通の趣味として読書があったんですけど、親父が読んでも面白いと思える本をたまに自分が薦めても、親父は一冊として読んでくれたことがなかったです。
似たもの同士だったのに、コミニュケーションが不全だったんですね。
そんな関係の二人でしたから親父が死んだときも特別悲しいってこともなく、葬式でも涙を流すこともありませんでした。
そんなふうに爬虫類並みに冷血な自分なのですが、『ビッグ・フィッシュ』という映画を観たときはボロボロと涙が止まりませんでした。
ティム・バートン監督のこの映画はそれまでのコアなバートンファンからは彼も大人になってしまった、とどこか冷たい反応をされ、一般的な映画ファンには『チャーリーとチョコレート工場』に比べると受けが悪いようです。
けれどコミュニケーションが不全だった父親と息子が、紆余曲折を経て、父親の死を前に和解するという内容の本作は、自分には自分たち親子の関係が重なってしまって、どうしようもないぐらいに泣けて泣けて仕方がありませんでした。
自分にとって親父の死は特別悲しいものではなかったけど、何といえばいいのか、もっと上手くコミュニケーションを取れなかったのだろうかといった悔恨の念(のようなもの)はやっぱり自分の中にもあったということなんでしょうね。
今日の三回忌は特別暗い雰囲気はなく、お坊さんが帰ったあとのお斎(とき。食事のこと。)でも主役は亡くなった親父ではなく、姪っ子のなるみと甥っ子のたけひろでした。
今年小学校に上がるやんちゃ盛りのなるみは料亭の廊下を駆け回り、ようやく一人立ちができるようになったばかりのたけひろはみんなからフルーツの苺をもらって上機嫌でした。
それでいいんだなぁって思います。
身近な人の死は悲しいものですけれど(自分の場合のように悲しくないこともありますが)、それをいつまでも悲しいままにしていてはいけないのではって思うんです。
人は、最終的に喪失というマイナスを自分の中でプラスに転じるように努めるべきではないでしょうか。
自分も親父とのコミュニケーションの不全を反省の糧として、もう少し他人と上手くコミュニケーションが取れるようになったらなぁと思っています。
もう親父が死んで二年も経つのかという気もするし、まだ二年しか経ってないのかという気もします。
自分と親父は不思議な関係でした。
一つ例を挙げると、兄貴は親父から将棋を習い、そして自分は兄貴から将棋を習い、親父は毎週欠かさずNHKの将棋の対局を観戦し、自分もそれに付き合うことが多かったというのに、自分と一度として親父と対戦したことがありませんでした。
たまに自分が将棋をしようと持ちかけても親父は何やかやと理由をつけて対戦を拒みました。
不思議でしょう?
他にも二人の共通の趣味として読書があったんですけど、親父が読んでも面白いと思える本をたまに自分が薦めても、親父は一冊として読んでくれたことがなかったです。
似たもの同士だったのに、コミニュケーションが不全だったんですね。
そんな関係の二人でしたから親父が死んだときも特別悲しいってこともなく、葬式でも涙を流すこともありませんでした。
そんなふうに爬虫類並みに冷血な自分なのですが、『ビッグ・フィッシュ』という映画を観たときはボロボロと涙が止まりませんでした。
ティム・バートン監督のこの映画はそれまでのコアなバートンファンからは彼も大人になってしまった、とどこか冷たい反応をされ、一般的な映画ファンには『チャーリーとチョコレート工場』に比べると受けが悪いようです。
けれどコミュニケーションが不全だった父親と息子が、紆余曲折を経て、父親の死を前に和解するという内容の本作は、自分には自分たち親子の関係が重なってしまって、どうしようもないぐらいに泣けて泣けて仕方がありませんでした。
自分にとって親父の死は特別悲しいものではなかったけど、何といえばいいのか、もっと上手くコミュニケーションを取れなかったのだろうかといった悔恨の念(のようなもの)はやっぱり自分の中にもあったということなんでしょうね。
今日の三回忌は特別暗い雰囲気はなく、お坊さんが帰ったあとのお斎(とき。食事のこと。)でも主役は亡くなった親父ではなく、姪っ子のなるみと甥っ子のたけひろでした。
今年小学校に上がるやんちゃ盛りのなるみは料亭の廊下を駆け回り、ようやく一人立ちができるようになったばかりのたけひろはみんなからフルーツの苺をもらって上機嫌でした。
それでいいんだなぁって思います。
身近な人の死は悲しいものですけれど(自分の場合のように悲しくないこともありますが)、それをいつまでも悲しいままにしていてはいけないのではって思うんです。
人は、最終的に喪失というマイナスを自分の中でプラスに転じるように努めるべきではないでしょうか。
自分も親父とのコミュニケーションの不全を反省の糧として、もう少し他人と上手くコミュニケーションが取れるようになったらなぁと思っています。