この世界の憂鬱と気紛れ

タイトルに深い意味はありません。スガシカオの歌に似たようなフレーズがあったかな。日々の雑事と趣味と偏見のブログです。

暗いところで待ち合わせ。

2006-12-02 23:59:31 | 新作映画
 乙一原作、『暗いところで待ち合わせ』、シネリーブル博多にて鑑賞。


 客観的に観ることが出来ない映画、というものがあります。原作や前作に対して過度な思い入れがある作品を指します。

 具体的に例を挙げるとまず『ターミネーター3』があります。自分は『ターミネーター』シリーズの1と2が大好きで、特に2の方はマイ・フェイバリットムービーといってもいいぐらいです(同率首位が『ショーシャンクの空に』)。
 なので『ターミネーター3』が劇場公開された時はすごく楽しみに(同じぐらいの不安も抱えて)観に行きました。『ターミネーター3』、単独では単なるつまらないB級アクション映画にすぎないと思います。しかし、これが超傑作である『ターミネーター2』の続編であることを加味して評価すると、、、存在すら許しがたいです。鑑賞中、これほど観ていて腹が立った映画はありませんでした。
 本作では敵の女性型ターミネーターを倒すのにシュワルツネッガー扮する正義のターミネーターが体内電池を使うんですけどね。その電池が使いようによっては強力な爆弾になるという設定らしくて。でもそれってありえないんですよ。なぜならシリーズのパート1で同型のターミネーターはプレス機に押しつぶされてるんだから、電池が爆薬になるなら押しつぶされた時点で工場は大爆発を起こしているはずです。
 つまり『ターミネーター3』の製作者は敵ターミネーターを倒すすべを思いつかなかったものだから、それまでのシリーズにはない、というか矛盾する設定を付け加えたってことなんでしょう。

 他にはこの春公開された伊坂幸太郎原作の『陽気なギャングが地球を回す』。この作品は原作と切り離して考えるとオシャレで小粋な銀行強盗ものといえるでしょう。が、原作に愛着のある自分にはやっぱり好ましくはなかったです。
 原作と映画は別物だっていうことは自分もわかっています。だから映画において(原作の)いくつかエピソードを削るのも、(原作とは異なる)独自のラストを迎えるのもそれはそれでありだと思います。
 でも、、、主役の性格がまるで別人っていうのはどーよ、って思います。映画『陽気な~』では主役の成瀬は真犯人に振り回されて劇中ずっとハァハァと息を切らして走り続けています。こんなの成瀬じゃなああああああああい!!!原作の成瀬はどこまでもクールで、ほとんど嫌味なぐらいに何もかもお見通しって感じの男で、だからこそカッコいいのに!!
 結局映画の製作者たちは原作の登場人物たちに対してそれほどの愛着はなく、単に作品の持つネームバリューだけを利用したかったんでしょう。
 それは『ターミネーター3』においても言えることだと思いますけどね。

 相変わらず前置きが長くなってしまいましたが、『暗いところで待ち合わせ』を観る前もすごく不安でした。何しろ原作者の乙一は現在数少ないコンプリート作家(全著作を所有している作家)のうちの一人で、しかも『暗いところで待ち合わせ』は乙一全著作の中でも一番好きな作品なんです。これで不安になるなっていうのが無理な話だと思います。映画では(原作では日本人の)主人公であるアキヒロが中国人とのハーフに変更されているし、きっと鑑賞後、『ターミネーター3』や『陽気な~』を観た時と同じような憤りを感じるのでは、そう危惧していました。
 しかしそれは幸いなことに杞憂でした。
 映画『暗いところで待ち合わせ』は、出来はともかくとして、監督を始めとする製作者たちの原作への“愛”が感じられる作品でした。アキヒロがハーフに変更されていたこともなるほど、その方が彼の孤独感を増す意味があったのだな、と納得できました(その割には彼は独り言もたどたどしく日本語でつぶやいてましたが。独り言は母国語でないとおかしいです。)。
 ヒロインのミチル役を演じる田中麗奈も非常によかったです。原作のミチルはどちらかというと野暮ったいイメージだったので、観る前は田中麗奈じゃ洗練されすぎじゃね?とか思っていたのですが、でも彼女は盲目であるミチル役をとても魅力的に演じていた、そう思います。
 原作に思い入れがある作品の映画化であっても、鑑賞して満足できることがあるのだ、ということを知って少し新鮮な気持ちです。


 次回鑑賞は『007 カジノ・ロワイヤル』の予定。
コメント (8)
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