日本人の特性の一つに、忘れっぽい、ということが挙げられると思う。
なので、十年後、二十年後、現在福島周辺で起こっている原発トラブルが沈静化すれば、東北大地震のことも人々は自然と忘れてしまうだろう。
根拠はある。
1994年に起きた、阪神淡路大震災の正確な日時を、実際被災した人間以外で覚えているものはいまい。
それに今回の東北大地震で亡くなった人の多くは津波で死んでいる。きつい言い方をすれば、亡くなった人たちは、地震が起きた場合、海岸沿いに住む者は一刻も早く高台に避難する、という当たり前のことがわかっていなかったのだ。二万人以上の人間が死んだ、明治三陸地震から、教訓を得ていなかった。
そして原子力発電である。
例えばフランスが原発のメリットだけに目を向け、原発大国になるのはわかる。
可燃エネルギーからの脱却を目指すのであれば、原子力発電以上に魅力的な発電方法はあるまい。
しかし、仮にも日本は世界で唯一の被爆国である。
広島と長崎への原爆投下で三十万人近くが亡くなった。
どのような経緯で日本に原発が導入されることになったのか、寡聞にして知らぬが、もしそのことを覚えていれば、決して導入は果たされなかったはずである。
三十万人の無辜の民を忘却できるのであれば、二万人など物の数ではないだろう。
今回の原発トラブルで、多くの人が一時的に脱原発、減原発を唱えているが、だがそれもあくまで一時的なものだろう。
原発の代替エネルギーとして、太陽光発電や風力発電が注目されているが、この世に絶対無公害の発電方法など存在しない。そのようなものはファンタジーやSFの世界にのみ存在する代物だ。
原発を放棄するということは、原発に代わる発電方法を選択する、というのでない。
原発によって供給される、現代社会の享楽を、放棄できるかどうか、ということだ。その割合はおよそ30%である。
自分は常々、原子力というものは、村の外れにある樹だと思っていた。
その枝に成る実は甘美で、人々の生活に恩恵を齎し、その根が発する腐った樹液は到底耐えられるものでなく、ときに人の命を奪う。
その樹を育てるか、それとも切り取るか、それは村人の選択一つだろう。
腹が立つとすれば、根は切り取ろうとしながら、実は収穫しようとする、あまりにも図々しい、自分に都合のよい考えである。
そしてそれはこれまでの日本人の選択であった。
そして今、日本は重大な選択に迫られている。
繰り返しになるが、その選択とは原発に代わってどの発電方法を選択するか、ではない。
そのことがわかっていない日本人があまりにも多い。
政府は我々に15%の節電を呼びかけている。
だが、原子力発電は総発電量の30%を占めるのだから、本気で原子力発電を無くそうと思ったら15%じゃ全然足りないってことは小学生にもわかる理屈だ。
樹を育て実を収穫するか、それとも根を切り取って樹を枯らすか。
どちらでも構わないだろう。それが真剣に考えた結果なのであれば。
忘れてならないのは根を切り取った上に実を収穫することは出来ないということだ。
忘れっぽい日本人にそれを望むのは難しいかもしれないが。
ここに書いたことはもうずっと前から考えていたことです。
ただ、ずっと前から考えていたことであっても、それを発表することはきっとないだろうなって思ってきました。
しかし、東北大地震による原発トラブルで、反原発、減原発が叫ばれる今なら、それを述べる意義があるのかもしれないと思い、あえて記事にすることにしました。
自分はもう十年以上もある実験をしています。
実験、というと大袈裟かな、要はエアコンなしに夏を過ごせるかどうか、自分自身で人体実験しているのです。
そこから得た結論は、自分には出来ても、それをすべての日本人に求めるのは無理だ、ということです。
残念ながら日本人はエアコンなしに夏は乗り切ることが出来ない体質(からだ)になってしまった。
何だか誰にも共感を得られない、反感ばかりを買う記事を書いてしまったのかもしれないけど、要は覚悟を問いたかったのです。
脱原発、反原発を唱える人に、現代社会の利便、豊かさ、安定を放棄する覚悟があるのか、ということです。
エアコンの温度設定を二十八度で、と言っている時点で、もう脱原発なんて夢のまた夢だと思うんですよね。
熱中症予防対策は重要なのかもしれないけど、だとしても、ね。
なので、十年後、二十年後、現在福島周辺で起こっている原発トラブルが沈静化すれば、東北大地震のことも人々は自然と忘れてしまうだろう。
根拠はある。
1994年に起きた、阪神淡路大震災の正確な日時を、実際被災した人間以外で覚えているものはいまい。
それに今回の東北大地震で亡くなった人の多くは津波で死んでいる。きつい言い方をすれば、亡くなった人たちは、地震が起きた場合、海岸沿いに住む者は一刻も早く高台に避難する、という当たり前のことがわかっていなかったのだ。二万人以上の人間が死んだ、明治三陸地震から、教訓を得ていなかった。
そして原子力発電である。
例えばフランスが原発のメリットだけに目を向け、原発大国になるのはわかる。
可燃エネルギーからの脱却を目指すのであれば、原子力発電以上に魅力的な発電方法はあるまい。
しかし、仮にも日本は世界で唯一の被爆国である。
広島と長崎への原爆投下で三十万人近くが亡くなった。
どのような経緯で日本に原発が導入されることになったのか、寡聞にして知らぬが、もしそのことを覚えていれば、決して導入は果たされなかったはずである。
三十万人の無辜の民を忘却できるのであれば、二万人など物の数ではないだろう。
今回の原発トラブルで、多くの人が一時的に脱原発、減原発を唱えているが、だがそれもあくまで一時的なものだろう。
原発の代替エネルギーとして、太陽光発電や風力発電が注目されているが、この世に絶対無公害の発電方法など存在しない。そのようなものはファンタジーやSFの世界にのみ存在する代物だ。
原発を放棄するということは、原発に代わる発電方法を選択する、というのでない。
原発によって供給される、現代社会の享楽を、放棄できるかどうか、ということだ。その割合はおよそ30%である。
自分は常々、原子力というものは、村の外れにある樹だと思っていた。
その枝に成る実は甘美で、人々の生活に恩恵を齎し、その根が発する腐った樹液は到底耐えられるものでなく、ときに人の命を奪う。
その樹を育てるか、それとも切り取るか、それは村人の選択一つだろう。
腹が立つとすれば、根は切り取ろうとしながら、実は収穫しようとする、あまりにも図々しい、自分に都合のよい考えである。
そしてそれはこれまでの日本人の選択であった。
そして今、日本は重大な選択に迫られている。
繰り返しになるが、その選択とは原発に代わってどの発電方法を選択するか、ではない。
そのことがわかっていない日本人があまりにも多い。
政府は我々に15%の節電を呼びかけている。
だが、原子力発電は総発電量の30%を占めるのだから、本気で原子力発電を無くそうと思ったら15%じゃ全然足りないってことは小学生にもわかる理屈だ。
樹を育て実を収穫するか、それとも根を切り取って樹を枯らすか。
どちらでも構わないだろう。それが真剣に考えた結果なのであれば。
忘れてならないのは根を切り取った上に実を収穫することは出来ないということだ。
忘れっぽい日本人にそれを望むのは難しいかもしれないが。
ここに書いたことはもうずっと前から考えていたことです。
ただ、ずっと前から考えていたことであっても、それを発表することはきっとないだろうなって思ってきました。
しかし、東北大地震による原発トラブルで、反原発、減原発が叫ばれる今なら、それを述べる意義があるのかもしれないと思い、あえて記事にすることにしました。
自分はもう十年以上もある実験をしています。
実験、というと大袈裟かな、要はエアコンなしに夏を過ごせるかどうか、自分自身で人体実験しているのです。
そこから得た結論は、自分には出来ても、それをすべての日本人に求めるのは無理だ、ということです。
残念ながら日本人はエアコンなしに夏は乗り切ることが出来ない体質(からだ)になってしまった。
何だか誰にも共感を得られない、反感ばかりを買う記事を書いてしまったのかもしれないけど、要は覚悟を問いたかったのです。
脱原発、反原発を唱える人に、現代社会の利便、豊かさ、安定を放棄する覚悟があるのか、ということです。
エアコンの温度設定を二十八度で、と言っている時点で、もう脱原発なんて夢のまた夢だと思うんですよね。
熱中症予防対策は重要なのかもしれないけど、だとしても、ね。