この世界の憂鬱と気紛れ

タイトルに深い意味はありません。スガシカオの歌に似たようなフレーズがあったかな。日々の雑事と趣味と偏見のブログです。

春の訪れ。

2019-02-27 23:16:08 | 戯言
 いよいよ2月も終わり、春が訪れようとしていますね。
 皆さんは何で春の訪れを実感しますか? 
 春一番の便り?桜の開花のお知らせ?
 まぁそれは人それぞれだと思いますが、自分は頭のお菓子な人が出没すると、あぁ、春がやってきたなと思いますね(主にこちらの記事にですが)。

 毎年毎年この時期になると似たような人が現れて、似たようなコメントをして、自分の方も似たようなレスを返しているような気がします。
 今年は、
>産まれ持った障害者の方が居なくなれば、国債がかなり少なくなるくらいの額ですよね。
などというトンチキなことをコメントしている人がいました。

 現在日本の借金である国債の残高は1053兆円です。
 あまりに巨額すぎて具体的にはまるでイメージできませんが、間違いなく言えるのは日本にいるすべての障害者を“処分”したとしても焼け石に水という奴でしょう。

 あえて“処分”という過激な言い方をしましたが、上述のコメントをした人は、どうやって障害者の人をいないようにするつもりなんでしょうか。
 どこかの山奥に障害者専用の焼却処分場でも作れ、とでも言うんでしょうか。
 障害者への援助を打ち切ったからといって障害者がいなくなるわけではないと思うんですが。

 こういったコメントをする人が好きな言葉に「生産性」があります。
 いわく、障害者は生産性が低いから切り捨てるべきなのだという理屈です。

 なるほど、障害者は生産性が低いから切り捨てるべきなのですか。
 でも別に生産性が低いのは障害者には限らないですよね。
 一例を挙げればニートなんてどうです?
 いい年をして働こうとしない人たちもいますよね。
 働く能力が低い障害者に対して働く能力があるのに働かないニートはより罪が重いと言えるのではないでしょうか。
 そういう人たちはどう“処分”するべきだと件のコメントをする人たちは考えるんでしょうね。
 ニートは市中引き回しの上に打ち首にでもすれば、きっと国民は皆、生産性を上げるべく狂ったように働くんじゃないですかね。

 結局のところ、件の人たちに足りないのは想像力なんだと思います。
 社会の弱者を切り捨てて私たちが希望や笑顔を失わないで済むかどうか。
 失わない、と思うのであれば、バンバン弱者を切り捨てても構わないんじゃないでしょうか。
 暮らしに困窮した母子が一家心中したニュースを耳にしても特に何も思うことはないのかな。
 社会の弱者を切り捨てて、同時に自分自身の人間性も切り捨てることにならなければよいですけどね。
コメント
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