団塊の世代の世間話

60年を生きてきた思いを綴った「ゼロマイナス1 団塊の世代の世間話」を上梓し、その延長でブログを発信。

友人のことども

2014-07-27 08:38:03 | Weblog
 やはり仕事があったり、締切だったりすると、ブログを書こうという気がなくなってくるし、最近はなにかを主張しよう、という強い意欲がない。
 もしあったとしても、その内容は、すでにどこかのメディアに書かれていることも多く、いまさらなあ、という気になってくる。
 身辺雑記という意味では、ここのところ友人の死とスマホを買ったぐらいで、あまり変化がない。あるとすれば、また友人が東京を去ることになった。
 上場企業に勤め、営業で各地を転々。最後に東京で定年を迎え、そのあと2つぐらいの団体職員になったが、持ち前の正義感から不正にたまらず尻をまくって辞めた。目下、ボランティアで講習をやっているが、それも整理して来月に名古屋に向かう。
 その理由は90歳以上の母親の面倒。彼の奥さんも近くの浜松で、そこの両親の面倒をみる必要があって決意した。東京のマンションに、母親の面倒をみる必要がなくなるまでリロケーションという形になる。
 彼の場合は老々介護であるが、定年で多くの友人が東京を後にした。私にとって一番困るのは、好きな時に一緒に飲む相手がいなくなることである。別に話すことは大してなく、ただ顔を見て、元気か、という程度の会話を交わし、あとは酒とともに一緒にいる、という関係である。
 それでも、私にとっては貴重な時間である。ということを考えてくると、業界で一緒にやってきた仲間も定年を迎えた。ただ彼の場合は、川崎だからいつでも会える。
 むろん気が合うという前提はあるとしても、結局、仕事であろうと、学校であろうと、一緒に過ごした時間があり、共有し合える経験があることが、友人の要件であり、そういう友人とたまに会うことが、自分という人間の存在の証になるのだろう。
 心の安寧を得る、ということにつながるわけで、だからこそ友人とたまには会わなければならない。相手の顔を見ることは、自分の顔をそこに映し出すことになるのだろう。
 まあ、以上の理屈はあるのだが、時々に無性に会いたくなるものである。この感覚は、ちょっと異性に対してはないものだ。女性に対しては、いつでも逢いたい、という高レベルの欲求であるのだろう。
 だいたい女性と逢うと、相手のことをいろいろと知りたくなるし、訊きたくなるものだ。ところが男の友人には格別な変化があれば別だが、あれこれ訊かないし、あまり身辺に関心が向かない。どちらかといえば、教養、社会や天下国家の話が多い。
 異性によって変わるものである。そうした友人が周りから櫛の歯が抜けるように少なくなっていく。かつて黒柳徹子が100歳まで生きたい、といったら、永六輔がそんなに生きたら誰も知り合いがいなくなってしまって、おしゃべりもできない、と答えた。
 生きているというのは、そういうことだろう、とつくづく思うものである。 

 エッセー「団塊SONGS」を配信中。原則的に隔週の日曜日にhttp://ameblo.jp/shiratorimn/にアップロードしています。エッセーで書いた歌は「団塊SONGS」(検索)で聴くことができます。カメラと写真の情報は「Web写真人」で。URLはhttp://shashinjin.digiweb.jp

おねえちゃんとおばちゃん

2014-07-15 14:18:45 | Weblog
 最近の日本の女性の齢が分からなくなってきた。アンチエイジングとかいって、加齢にあがらう女性が増えたせいだろう。
 吉永小百合は69歳である。相変わらず異様に若いし、十朱幸代も同世代ながら、厚化粧が目立つが、二人ともいつまでも美しい。
 齢をとらなくなった理由をここであげつらっても意味がないが、女性のあれこれを考えると面白いものがある。
 別のブログでも書いたことがあるが、かつて日本に3人のおばさんがいた。みどりのおばさん、ニッセイのおばさん、ヤクルトおばさんである。堂々とおばさんと呼べる女性たちだった。
 ところが、いまやおばさんと呼べなくなってしまった。トイレで掃除をしているおばさんにも、おばさんではなく、おばちゃんと呼ばなければ失礼なようになった。
 さんでなく、ちゃん付けである。じゃあ、おばさんはどこに行ったのか。せいぜい親戚のおばさんという程度の存在に成り下がったわけだ。
 まあ、たいていのお年寄りに、おばちゃんと呼んでおけば、差し障りはなさそうである。その前段として、おねえちゃんという存在がある。
 名古屋弁なら、ねーさん、と呼ぶこともあるが、これはもう死語であろう。このおねえちゃんとは、いったいいくつからいくつまでなのか。
 女子中学生なら、おねえちゃんでももういいであろう。小学生はお嬢ちゃんなんだろうな。しかし、このおねえちゃんの呼称範囲は広い。キャバクラのおねえちゃんもいるし、食堂のおねえちゃん(おばちゃんでも通じるが)もいる。
 つまり10代から、まあ、50代、あるいは60代ぐらいまでなら、すべておねえちゃんでもOKなのである。むろんおばちゃんと微妙に交差している。
 じゃあ、厳密におねえちゃんとおばちゃんの区別はどこにあるのか。これが分からないが、呼ぶ時の相手とこちらの関係性が重要ではないか、と考える。
 例えば、飲み屋で、ビールやツマミを頼む時は、やはりおねえちゃんであろう。早く持ってきてほしい気持ちがあって、相手の機嫌をとる必要があろう。ところが散らかったテーブルを片付ける時に、おばちゃん早くやってよ、といういい方のほうがマッチする。こういう時に微妙に使い分けているものである。
 最後の、ばあちゃんはどうなるのだろうか。意外と分かりやすいのが、このおばちゃんとばあちゃんの分け方である。見ればはっきりする。
 おばちゃんはまだ女性としての意識が外側に出ている。ところがばあちゃんは、まあ、じいちゃんとも区別がつかない格好をしている。もう女を捨てているわけだ。
 あとは、おねえちゃんと奥さんという言い方で分ける。これは簡単だがなんでも、奥さん、というのは荒っぽい八百屋のようで嫌なものである。
 相手を尊重して、いかに使い分けるか。男性もいろいろと頭を使わなければならないものだ。

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スマホに慣れてみたものの

2014-07-05 08:23:49 | Weblog
 スマートフォンを買って約1ヶ月が経った。まあ、いちいち報告するほどのことではないが、買う時にあれだけ騒がせたのだから、一応購入後の結果を報告したい。
 1ヶ月経っても、まだまだ分からないことが多い。買ってすぐに、このケータイの電話番号はどこで知ればいいのか、とメーカーの担当者に電話をした。プロフィールのところをタッチすれば、電話番号が出てくる。
 知れば簡単なことだが、しっかりと取説を読むほうではない。最初にうちの固定電話から自分で電話をかけて、その発信音などを確認したが、電話は鳴るが出方が分からない。
 画面で動いている部分を横になぞる、ということを知らなかった。これは取説で知った。そんなわけで、じわじわと覚えていったわけだが、まだ分からないのがグーグル・クロームの使い方。ブックマークなどは、いつの間にか消えてしまうし、パソコンと同期もしない。説明通りにやるのだが、うまくいかない。
 それほど困るわけでもないから放っておいてある。ただカレンダーだけは同期できるようにした。パソコンでカレンダーに入力すれば、自動的にスマホも同期している。それなりに便利なものである。
 もうひとつは、パソコンのメールをスマホでも確認できるようにすること。当初はできないのだろう、と思い込んでいた。しかしグーグルクロームでウェブサイトが見られるのだから、大丈夫だろうとあれこれやってみた。
 私が使っているメールアドレスは、アウトルックとOCN。アウトルックはクローム画面の検索から、outを入力すれば出てくる。それをクリックすればOKだし、またOCNはそのトップページを表示してから、その中のメニューのメールを選ぶ。
 OCNのほうはさほど問題がなかったが、アウトルックはいつもIDとパスワードを入力する画面になって、いちいち入力する手間が面倒だった。そうならない時もあるし、また違った画面が表示されることもあり、一定でないのが困る。
 なにかの理由があって、そうしているのだろうが、持ち主が決めたらその通りになるような設定はないものだろうか。
 いまのところそんな使い勝手となっている。他の機能はさほど使っていない。テレビは見ないし、ネットもなにか緊急がなければ調べないし、ニュースなどもスマホで見たいとは思わない。
 だから、外出先でほとんどスマホを使わない。電話も受けが多いし、メールはほとんどSMSだけ。スマホのメールは使っていない。いろいろと案内が来て面倒だからだ。むろんLINEなんかまったく使う気はない。ざっとアプリも見てみたが、これは使いたいと思うものはあまりないし、手書き入力のアプリを入れたが、使えるほどのものではなかった。
 めったに電話もかからないし、メールは前述のウェブサイトをちらちら見る程度。いつ帰るの帰るコールを女房にSMSで知らせるのが、最大の役目になっている。
 要するに、今のところガラケーとほとんど同じ使い方をしている。ちょっともったいない使い方ではあるが、こんなものだろう、と思っている。いずれ、おっこんなことにも使えるのか、という眼から鱗を期待しているが、いつのことやらというのが現状である。

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