やはり仕事があったり、締切だったりすると、ブログを書こうという気がなくなってくるし、最近はなにかを主張しよう、という強い意欲がない。
もしあったとしても、その内容は、すでにどこかのメディアに書かれていることも多く、いまさらなあ、という気になってくる。
身辺雑記という意味では、ここのところ友人の死とスマホを買ったぐらいで、あまり変化がない。あるとすれば、また友人が東京を去ることになった。
上場企業に勤め、営業で各地を転々。最後に東京で定年を迎え、そのあと2つぐらいの団体職員になったが、持ち前の正義感から不正にたまらず尻をまくって辞めた。目下、ボランティアで講習をやっているが、それも整理して来月に名古屋に向かう。
その理由は90歳以上の母親の面倒。彼の奥さんも近くの浜松で、そこの両親の面倒をみる必要があって決意した。東京のマンションに、母親の面倒をみる必要がなくなるまでリロケーションという形になる。
彼の場合は老々介護であるが、定年で多くの友人が東京を後にした。私にとって一番困るのは、好きな時に一緒に飲む相手がいなくなることである。別に話すことは大してなく、ただ顔を見て、元気か、という程度の会話を交わし、あとは酒とともに一緒にいる、という関係である。
それでも、私にとっては貴重な時間である。ということを考えてくると、業界で一緒にやってきた仲間も定年を迎えた。ただ彼の場合は、川崎だからいつでも会える。
むろん気が合うという前提はあるとしても、結局、仕事であろうと、学校であろうと、一緒に過ごした時間があり、共有し合える経験があることが、友人の要件であり、そういう友人とたまに会うことが、自分という人間の存在の証になるのだろう。
心の安寧を得る、ということにつながるわけで、だからこそ友人とたまには会わなければならない。相手の顔を見ることは、自分の顔をそこに映し出すことになるのだろう。
まあ、以上の理屈はあるのだが、時々に無性に会いたくなるものである。この感覚は、ちょっと異性に対してはないものだ。女性に対しては、いつでも逢いたい、という高レベルの欲求であるのだろう。
だいたい女性と逢うと、相手のことをいろいろと知りたくなるし、訊きたくなるものだ。ところが男の友人には格別な変化があれば別だが、あれこれ訊かないし、あまり身辺に関心が向かない。どちらかといえば、教養、社会や天下国家の話が多い。
異性によって変わるものである。そうした友人が周りから櫛の歯が抜けるように少なくなっていく。かつて黒柳徹子が100歳まで生きたい、といったら、永六輔がそんなに生きたら誰も知り合いがいなくなってしまって、おしゃべりもできない、と答えた。
生きているというのは、そういうことだろう、とつくづく思うものである。
エッセー「団塊SONGS」を配信中。原則的に隔週の日曜日にhttp://ameblo.jp/shiratorimn/にアップロードしています。エッセーで書いた歌は「団塊SONGS」(検索)で聴くことができます。カメラと写真の情報は「Web写真人」で。URLはhttp://shashinjin.digiweb.jp
もしあったとしても、その内容は、すでにどこかのメディアに書かれていることも多く、いまさらなあ、という気になってくる。
身辺雑記という意味では、ここのところ友人の死とスマホを買ったぐらいで、あまり変化がない。あるとすれば、また友人が東京を去ることになった。
上場企業に勤め、営業で各地を転々。最後に東京で定年を迎え、そのあと2つぐらいの団体職員になったが、持ち前の正義感から不正にたまらず尻をまくって辞めた。目下、ボランティアで講習をやっているが、それも整理して来月に名古屋に向かう。
その理由は90歳以上の母親の面倒。彼の奥さんも近くの浜松で、そこの両親の面倒をみる必要があって決意した。東京のマンションに、母親の面倒をみる必要がなくなるまでリロケーションという形になる。
彼の場合は老々介護であるが、定年で多くの友人が東京を後にした。私にとって一番困るのは、好きな時に一緒に飲む相手がいなくなることである。別に話すことは大してなく、ただ顔を見て、元気か、という程度の会話を交わし、あとは酒とともに一緒にいる、という関係である。
それでも、私にとっては貴重な時間である。ということを考えてくると、業界で一緒にやってきた仲間も定年を迎えた。ただ彼の場合は、川崎だからいつでも会える。
むろん気が合うという前提はあるとしても、結局、仕事であろうと、学校であろうと、一緒に過ごした時間があり、共有し合える経験があることが、友人の要件であり、そういう友人とたまに会うことが、自分という人間の存在の証になるのだろう。
心の安寧を得る、ということにつながるわけで、だからこそ友人とたまには会わなければならない。相手の顔を見ることは、自分の顔をそこに映し出すことになるのだろう。
まあ、以上の理屈はあるのだが、時々に無性に会いたくなるものである。この感覚は、ちょっと異性に対してはないものだ。女性に対しては、いつでも逢いたい、という高レベルの欲求であるのだろう。
だいたい女性と逢うと、相手のことをいろいろと知りたくなるし、訊きたくなるものだ。ところが男の友人には格別な変化があれば別だが、あれこれ訊かないし、あまり身辺に関心が向かない。どちらかといえば、教養、社会や天下国家の話が多い。
異性によって変わるものである。そうした友人が周りから櫛の歯が抜けるように少なくなっていく。かつて黒柳徹子が100歳まで生きたい、といったら、永六輔がそんなに生きたら誰も知り合いがいなくなってしまって、おしゃべりもできない、と答えた。
生きているというのは、そういうことだろう、とつくづく思うものである。
エッセー「団塊SONGS」を配信中。原則的に隔週の日曜日にhttp://ameblo.jp/shiratorimn/にアップロードしています。エッセーで書いた歌は「団塊SONGS」(検索)で聴くことができます。カメラと写真の情報は「Web写真人」で。URLはhttp://shashinjin.digiweb.jp