昼休みにうちでテレビを観ていたら、次男が兄と弟を刺して自殺、というニュースをやっていた。
へぇー、大変な事件だ、と思っていたら、次の画面で、年齢が45歳と出た。なんだあ、ひとつのうちにそんな齢になっても、兄弟3人がともに住んでいるんだ、というその異様さに首をかしげた。
事件の実態はこれからの捜査を待つことになるが、実際そういう例は多くなっていて、子供がずっとうちにいるケースが珍しくないという。
女性なら結婚後失敗して出戻った例か、あるいはずっとうちにいて、ただ齢をとっていくこともあるだろうし、まともな就職をして一度外に出ても、退職してアルバイトだけで食えずに、戻ることもあるだろう。
そういう子供を迎えるのは親として当たり前ではあるが、なにかそこに、ある異常さが潜んでいるような気がする。
子供をいつまでも手元に置いておきたい、と考える親は多い。おじいちゃんやおばあちゃんが高齢で手がかかるようになるなら、自分の子供の手をあてにすることもあろう。
子供も、いつまでもなんとなくずっと親と一緒にいることに、さほどの違和感を覚えなくなってしまっている可能性もある。
そうした子供と親が、いつまでもともに暮らすことになってしまう。親は子供が一緒にいたほうが安心、子供は親の金をあてにできるし、いずれ遺産が転がり込むこともある。この気持ちの延長が、世間を騒がせた死んだ親の年金目当てになった。
つまり両者が共通の利益で一致してしまうわけだ。こんな家庭が多くなっていることで、日本人が内向きになっていると指摘されるのではないか。
人間は、まずうちから出ることで世間を知る。それは親から離れることを意味する。それが自立につながる。
大人になるまでに、自立できる人間にすることが教育であろう。その教育がどこかで歪んでしまった。突き詰めれば過保護が原因だ。
どこかで社会通念を忘れてしまった。働き出したら、うちを出る。自立し自活する。それを当たり前とする社会ではなかったか。
もし日本を強くするなら、結局個人を、一人ひとりを強くすることしかないのではないのだろうか。
「60からのマイソング55」を配信中。毎日曜日にhttp://ameblo.jp/shiratorimn/にアップロードしています。エッセーで書いた歌は「団塊SONGS」(検索)で聴くことができます。また「Web写真人」でも検索できます。URLはhttp://shashingin.web.infoseek.co.jp
へぇー、大変な事件だ、と思っていたら、次の画面で、年齢が45歳と出た。なんだあ、ひとつのうちにそんな齢になっても、兄弟3人がともに住んでいるんだ、というその異様さに首をかしげた。
事件の実態はこれからの捜査を待つことになるが、実際そういう例は多くなっていて、子供がずっとうちにいるケースが珍しくないという。
女性なら結婚後失敗して出戻った例か、あるいはずっとうちにいて、ただ齢をとっていくこともあるだろうし、まともな就職をして一度外に出ても、退職してアルバイトだけで食えずに、戻ることもあるだろう。
そういう子供を迎えるのは親として当たり前ではあるが、なにかそこに、ある異常さが潜んでいるような気がする。
子供をいつまでも手元に置いておきたい、と考える親は多い。おじいちゃんやおばあちゃんが高齢で手がかかるようになるなら、自分の子供の手をあてにすることもあろう。
子供も、いつまでもなんとなくずっと親と一緒にいることに、さほどの違和感を覚えなくなってしまっている可能性もある。
そうした子供と親が、いつまでもともに暮らすことになってしまう。親は子供が一緒にいたほうが安心、子供は親の金をあてにできるし、いずれ遺産が転がり込むこともある。この気持ちの延長が、世間を騒がせた死んだ親の年金目当てになった。
つまり両者が共通の利益で一致してしまうわけだ。こんな家庭が多くなっていることで、日本人が内向きになっていると指摘されるのではないか。
人間は、まずうちから出ることで世間を知る。それは親から離れることを意味する。それが自立につながる。
大人になるまでに、自立できる人間にすることが教育であろう。その教育がどこかで歪んでしまった。突き詰めれば過保護が原因だ。
どこかで社会通念を忘れてしまった。働き出したら、うちを出る。自立し自活する。それを当たり前とする社会ではなかったか。
もし日本を強くするなら、結局個人を、一人ひとりを強くすることしかないのではないのだろうか。
「60からのマイソング55」を配信中。毎日曜日にhttp://ameblo.jp/shiratorimn/にアップロードしています。エッセーで書いた歌は「団塊SONGS」(検索)で聴くことができます。また「Web写真人」でも検索できます。URLはhttp://shashingin.web.infoseek.co.jp