団塊の世代の世間話

60年を生きてきた思いを綴った「ゼロマイナス1 団塊の世代の世間話」を上梓し、その延長でブログを発信。

明日から消費増税

2014-03-31 14:18:08 | Weblog
 今日で消費増税の狂騒曲が終わる。明日からスーパーの店頭も落ち着いた以前の風景に戻ろうと思うが、実際は駆け込み後の落ち込みをカバーしよう、とまた値下げやお得のキャンペーンが始まるのだろう。
 女房はトイレットペーパーを2個ほど買い込んだが、わが家はその程度だった。以前にも書いたが、5%から3%増えるだけで、高額商品でない限りはあまり差は感じないだろうが、人々は節約のために狂奔した。
 それにしても、いろいろな矛盾が露呈している。例えば、券売機の値段と電子マネーによる運賃額が違うことだ。一物多価を運営者が認めてしまったわけだ。それを是正する方向性を打ち出してもいない。なんたる怠慢であることか。
 いまだに売価の表記も統一がとれないままだ。この稿で書いたこともあるが、すべて外税表記にすべきなのだ。レジに行って、消費税がいくら、ということで、はっきりと納税意識が認識できる。
 内税表記にして、消費税を見えないようにしてやってきたのが、これまでの表示だった。確かにレジで各々の値段を足せば、いくらになるのかは分かりやすいが、これでは納税意識は希薄になっていく。それを為政者も行政も販売者も期待した。
 しかし、8%ではそんな甘い期待はできない。だったらすべての販売商品を外税にすれば、もっとも分かりやすい。そうした行政指導をもっと徹底してやるべきではないか。3%の導入時はけっこう神経質だったように思う。
 さらに、本当に消費増税が社会保障費に回されるのか、という信頼もいまいちである。給料も大手のベアは上がったが、中小のそれはとんと聞かれない。パート・アルバイトの最低賃金もアップにはなっていない。非正規にしわ寄せがまたいくのか。
 景気の指標となるのは、マクロ経済の数字だ。路地裏の居酒屋の数字などが入る余地はない。きっと増税になっても、価格の転嫁はむつかしい店ばかりだ。
 庶民の懐に手を突っ込んでぶったくりをするような消費増税は、もうゴメンにしてほしい。景気は4月以降腰折れし、たぶん10%の消費税はむつかしい状況になっていこう。
 景気が良くなることは誰でも望んでいることだが、日本の経済はそう単純な状況ではなくなっている。好景気で輸出が増えると思ったら、メーカーの海外転移で期待外れに終わったし、景気が良くなれば電力需要が増して、火力発電のコストは増すばかりだ。だから原子力という論点もどうかなと思う。
 それよりも、集中的な成長戦略を打ち出して、それを実現することで日本を変えていく、というビジョンこそが、国民を明るくする話題だろうし、それによってビジネスを拡大していく方向性ではないか。
 それをリードする政治家が、あの体たらくではなにをかいわんやである。渡辺喜美のことを書こうと思ってやめた。政治家の問題というより、人物の問題になろう。

 エッセー「団塊SONGS」を配信中。原則的に日曜日にhttp://ameblo.jp/shiratorimn/にアップロードしています。エッセーで書いた歌は「団塊SONGS」(検索)で聴くことができます。カメラと写真の情報は「Web写真人」で。URLはhttp://shashinjin.di

カラオケバーのママが死んだ

2014-03-18 05:47:32 | Weblog
 私が懇意にしていたカラオケバーのママが死んだ。病院に入院して、わずか2週間の命だった。本人はひた隠しにしていたが、69歳だった。
 昨年暮れに閉店した店で飲んでいた時に、どこかで歌える店はない、と訊いた。そのママが、すぐそばのカラオケバーに連れていってくれた。以来からの付き合いで、たぶん7~8年にはなるだろう。
 私が歌を歌うようになって4年ぐらいか。この店はカラオケバーだったから、歌わせることが商売だった。それにしては、当初はあまり歌うことを勧めなかった。たまに歌っても、たいした歌ではなかったのだろう。
 しかし、歌に目覚めてから、練習して多少でも自分で納得できるようになってからは、今日はなにを歌うの、とよく聞くようになって、勝手にこちらの得意そうな歌をカラオケのオーダーに入れるようになった。
 最初にこのママとなんとなく心の交流ができたような気になったのは、越路吹雪の『夢の中に君がいる』を覚えてからだった。ママに聴いてもらえることがうれしくなった。そして、ママも覚えて、たまに私を制して自分でも歌っていた。
 こちらは、歌謡曲というより、フォークやニューミュージックを歌うほうだったから、あまり接点はなかったが、そろそろ歌う歌がなくなってきつつあった頃に、ママがたまたま和田アキ子の『二杯目のお酒』を歌った時には、ほほお、どんな歌なの、とタイトルを訊いたものだ。この歌は結局、私のレパートリーに入った。
 次に竹内まりあの『人生の扉』を教えてくれた。この歌には凝った。当初はあまりスムーズに歌えなかったが、あれこれ歌っていくうちにさまになっていった。「いい歌を教えてくれたね」と感謝した。
 このあと金子由香利の「再会」などもあった。お客の歌う歌を聴いて、新しい歌を覚えるようにしていたが、なかなかフィットする歌はなかった。
 亡くなる1ヶ月ぐらい前に寄ったことがあった。私がちょっと勢いに乗って話をしていると「あんた、満身創痍の身体なのに、どうしてそう元気なの」と、ちょっと寂しそうにいった。私の病気は、このブログでも紹介しているから、いまさらながらではあるが、たぶんこの頃から、自分の死期を悟っていたのだろうか。
 入院前に常連客に勧められて、民間の放射線治療を行った。それが逆効果で、治療のため病院に通った。復帰して、すぐに最後の入院になった。
 最後に交わした会話はなんだったろう、と思い出そうとしているが、なかなか思い出せない。こちらは元気な姿で戻ってくると信じていたから、受け流していたのだろう。本人もそのつもりだったからこそ、お別れなんて意識はなかったろう。
 こういう店のママと客との関係とはなんだろう。同じぐらいの齢なら、男女の関係にまで発展することはあるだろうが、まあ、そんな齢ではない。多少の男女を意識しながら、不思議な関係を続けていくのが、長い付き合い方なのだろうか。
 もう少し、歌でも話でも聞きたかった。さらばである。
 
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分からないことばかり

2014-03-13 14:53:44 | Weblog
 最近、どうもわけが分からないことが多いような気がする。要は、事件・事故などが単純ではなくなってきたのか、あるいはそれを報じるメディアの説明や仕方が劣化したのだろうか。
 まずSTAP細胞。早い話、小保方さんを出して、しっかりと研究成果のプロセスを聞けばいいではないか。ここまで騒がれて、小保方さんはなぜ公の場に出てこないのか。割烹着が泣こう、というものだろう。
 佐村河内問題。これも新垣さんと泥仕合に入ってしまった。どちらが悪いのか、よく分からなくなってしまったが、佐村河内さんがペテン師、新垣さんがその協力者というふうに見ればいいのだろうか。分かったことは、クラシック音楽というのはその評価が分からない、ということがよく分かったわけだ。
 マレーシア機の消失も分からない。これはただ捜索海域を間違えているだけかもしれないが、いきなり消息を絶ったというのが理解できないだろう。人工衛星は街中を歩いている人間も判別できる、というカメラ性能らしいが、もっと大きい飛行機がどうして見つからないのだろうか。場所が分からなければ、そんな性能も無意味ということなのか。
 先般書いた柏の殺傷事件も、やはり動機がよく分からない。単なる凶暴なバカなのか、精神異常者か。裁判になって精神異常で無実なんてことにならないように願うばかりだ。
 ようやく犯人が捕まったが、アンネの日記損壊事件も分からないなあ。なんとなくメディアは、その動機についてまったく触れないが、たぶん日本の右傾化をそういう形でアピールしたかったのだろう。で、誰が利益を得るのか。当然、中国や韓国であろう。日本の右傾化は軍国化、日本をまた悪者にすることができる。左傾メディアは特にそうしたことは報じないものだから、ますます分からなくなる。
 ジャパニーズ・オンリーという横断幕を掲げて顰蹙を買った浦和レッズ戦。浦和レッズがそんな悪いとは思えないが、これも日本の右傾化をひとつの形でアピールしたのだろう。確かに日本の若者は、先日の都知事選で保守化の傾向が強い、という結果が出ている。しかし、いきなり右傾化もないものだろう。左傾が進歩的という変な日本社会の思い込みに一定の反省が出ているのだろう。裏に中国がいるかもしれない。
『文藝春秋』の最新刊で、団塊世代の断罪をテーマにしているが、要は左寄りの進歩的文化人の脆弱性と偽善性というのがベースにあるだろう。私も団塊世代だが、ひと括りされる不愉快さはあり、世代で説明はつきやすいが、それが全てではないのは当たり前のことだ。文藝春秋社内でも、団塊世代が少なくなっているかもしれない。
 というわけで、書き連ねてくると、分からないことが多い。なんとなく日本社会を覆ってきた戦後からの価値観がなし崩しに終わり、新しい価値観が生まれつつあるような気がする。その戦後の価値観を引きずってきた最後の世代が我々だ。しかも最大の人口数で、流行を作り景気も良くしてきたが、弊害も最大になった。確かに他の世代からすれば、もう終わりにしたいのは理解できる。
 
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呆れる罪悪感の希薄さ

2014-03-06 11:21:34 | Weblog
 千葉県の柏市での殺傷事件にも震撼させられたが、三重の女子中学生の殺害にも、犯人が捕まってびっくりした。三重の犯人は犯行当時は高校生で、犯行後も普段の生活態度を崩さなかった。柏の竹井容疑者も、ただ金が欲しかった、と平然としている。
  どちらも共通しているのは、罪悪感の希薄さだ。そしてきわめて衝動的な犯行のようである。人を殺して平然としていられるほど、人間は図太くないだろう、と信じられていた。しかし、こうした若者が多くいるとなると、人間観を変えなければならなくなってくる。
 むろん前科があり、犯罪の常習者なら、なにをやっても平気だろうし、刑務所も覚悟のうえだ。ところが、ふつうの若者がある日、衝動的に人を殺してしまう。そこに至る心理的な葛藤はあったのだろうか。そうなら、まだ救われる気がするが、どうもそんなブレはなく、躊躇なくハードルを超えてしまう。
 どうなってしまっているのだろうか、と周りを見回したくなる。結局、当事者意識そのものがないようにも受け取れる。別人格が犯行を犯して、犯行後はその人格がリセットされ、違う人格に入れ替わってしまう。つまりよくいわれる人生が、ゲーム感覚でしか捉えられないようになってしまっているのだろうか。
 こうした不気味な人間を生み出してしまうのが、現代社会の病弊なのだろうが、もうひとついえることは、人間関係の希薄さにもあるだろう。同じ家庭の中にいても、会話もなく心から話し合うことがない。携帯・スマホのメールなら、相手の顔を見ることなく通り一遍のコミュニケーションは成立する。つながっている、理解されている、とどこかで錯覚してしまう。
 孤独なのか、というより、孤独すら意識することがないのかもしれない。いったい何を考え、何をやって生きてきたのか、とそうした犯罪者に問いたいものだ。
  罪悪感の喪失は、いうまでもなく教育の結果であるだろう。自由と権利を強調し過ぎた戦後教育が辿り着いた果てなのか、という絶望感もあるが、それをいっても何も始まらない。
 今からでも遅くないから、幼児の頃から家庭内での道徳観を養うことだろう。きっちりと叱ること、うちでも社会の中でもやっていけないこと、人に迷惑をかけないこと、などなど人として当たり前のことを教え込むことではないか。当然、保育園、幼稚園、学校ともリンクして、家庭と同じ価値観を共有しなければならない。
 道徳、というと古いと思われるかもしれないが、要は家庭や社会の中で生きていくためのルールというものだ。そこに国家などが入り込んでくると、話はややこしくなるが、そうした生き方の最低のルールを幼い頃から教えることによって、ある程度は人間は一定の規範の中で生きていくことができるようになるものだ。
 それから、個々人の多様性というレベルに行けばいいのではないか。人間は自由、子供の権利、個性尊重などといって、大事な何かを見失ってきたのが戦後教育であろう。そろそろ新しい教育の価値観を見出していかなければならない時期であろう。まさに100年の大計である。

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