団塊の世代の世間話

60年を生きてきた思いを綴った「ゼロマイナス1 団塊の世代の世間話」を上梓し、その延長でブログを発信。

高齢者は平日外出でどうか

2012-11-26 11:53:50 | Weblog
 小さい頃に見たテレビドラマで、いかにも頑固そうな親父が、子供が遊ぶためのお金を稼ぐためにアルバイトをしたい、といった時に、学費を稼ぐためあるいは親を助けるために、アルバイトを余儀なくされている子供もいる、そういう子供のアルバイトこそが優先される。おまえの遊興費なら、おれが出してやる、と説教した場面があった。
 このシーンが教えていることは、他意がなくても、他人の邪魔をしていることもある、自分の行動は常になんらかの形で他人に影響を与える、ということだろう。
 翻って現代を見回すと、いよいよ高齢化社会になってきた。たまたま3連休があったが、繁華街は高齢者であふれている。いったい高齢者は、前述のシーンの意味を考えたことがあるのだろうか。
 休日は、現役の勤労者が心身ともに休む日だ。どこかに出かけるのも、平日は働いているのだから、休日しか選べない。
 一方の毎日が日曜日のリタイアの高齢者は、わざわざ休日を選んで出かけることはない。平日、しかも時間も自由なのだから、早めに行きたいところに行ったほうがいいと思う。
 つまり自分たちの行動が、現役世代の人々の自由な行動を妨げていることも考えなければならない。
 むろん休日に出かける権利はある。しかし、少しでもそうした想像をしたことがあるのだろうか。高齢者の自己中心主義、ジコチューの方々も増殖している。
 美術館でも話題のスポットでも、とにかく高齢者が目立つようになった。元気はいい。お金を遣うこともいい。しかし、そこに他人に対する思いやりがあるのだろうか。
 巷にあふれる高齢者の姿を見ると、なんとも無惨な気持ちになってくる。といって自分も高齢者であるが、まだ現役ではあるのだが、少しは反省して、これからは行動しよう、と思っている。
 高齢者の女性にこの機会にご注文をひとつ。帽子を目深に被り、大きなマスクをして顔を隠すようにして出歩くのは、ちょっと止めてほしいなあ。あれではヘルメットのフルフェースに近く、ひどく暗いイメージを放っている。これも他人がどう思うか、という意味で興味深いことだ。

 エッセー「団塊SONGS」を配信中。毎日曜日にhttp://ameblo.jp/shiratorimn/にアップロードしています。エッセーで書いた歌は「団塊SONGS」(検索)で聴くことができます。カメラと写真の情報は「Web写真人」で。

団塊SONGS/人生の扉

2012-11-21 11:06:18 | Weblog
     団塊SONGS/人生の扉(ニ〇〇七)
 
 すっかりブログの更新が遅れてしまった。前回の『小便の行方』にあるブログでは、けっこう多くのアクセスがあった。体験談ではあるが、ある、ある、と膝を打って読まれた方が多いのだろう。実際、泌尿器系や肛門系の話は、あまり触れられることはないが、深刻でありやや滑稽であり、やはり人生の機微になるのだろう。
 その人生を歌った唄でいい唄があります。竹内まりやの『人生の扉』。すでに団塊SONGSのサイトにはアップロードしてあり、アメーバーブログにはエッセーもありますが、ここで再録して、せめてその唄に触れられる機会があれば、と思い綴りました。むろん私の唄より、竹内まりや本人の楽曲を聴いてください。

 竹内まりやの三五枚目のシングルで、当時の協和発酵のコマーシャルで使われた。このCMを見たが、同社が取り組む癌研究をアピールする内容で、バックに流れるフレーズは「満開の桜や 色づく山の紅葉を/この先いったい何度 見ることになるだろう」の部分だった。
 このように、まさに人生を歌った唄で、中にある英語の歌詞では二十歳から九十歳までの気持ちを短いセンテンスで歌っている。これまで人生を歌った唄はあまたあったが、応援歌や思い入れ、詠嘆調など、どこか人生を一定の視点で見つめる唄が多かった。
 ところが、この『人生の扉』は、人生に寄り添いともに歩み続ける人を、なにかでふわっと包むようなやさしさに満ちている。こうした特異なスタンスを持ち得た竹内まりやの才能に拍手を贈りたいし、日本の楽曲がここまで到達したことに感動を覚える。
 とはいえ、私はこの唄をCMでも聴いていないし、教えられるまでまったく知らなかった。情けない話だが、相変わらずカラオケバーのママに、いい唄があるわよ、と教えてもらった。早速、帰ってうちでネットにある曲を聴いてみた。確かにいい唄だな、と思ったものの、当初はさほどのインパクトはなかった。
 なんだか長い唄だなあ、英語もあって面倒だなあ、というのが印象だった。そもそも竹内まりやの唄を歌ったことがなかった。それでもチャレンジ精神は旺盛だから、試しに歌ってみた。シンガーソングライター特有のくせがあって、むつかしい楽曲だった。
 ただ英語の歌詞の邦訳を読むと、これは歌わなければならない、という使命感のような思いに囚われるのだった。「六〇歳って元気だねと言うと/あなたは七〇歳でも大丈夫よと言います/みんな八〇歳でもまだまだいけると言います/私はたぶん九〇歳以上生きるでしょうね」
 これほど平易な言葉で人の齢を言い表した例は記憶にない。それを英語で歌うから、稚拙さがなくなって曲にうまくはまっている。日本語と英語のミックスの歌は、若い人向けが大半であるが、決して必然性があるわけではないだろう。この『人生の扉』は、ミックスゆえに成功した楽曲となった。
 結局、かなりの時間をかけて、自分ではモノにすることができた、と思っている。我田引水になるが、現在私が歌っている唄を集めたウェブサイトの『団塊SONGS』の中では、トップのアクセス数になっている。まだまだ拙い部分があって恥ずかしい思いもあるが、こうした風景を持つ唄をみんなが待望しているのではないだろうか。しかし竹内まりやのほかの唄を歌う気にはまだなれない。

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小便の行方

2012-11-05 13:12:25 | Weblog
「また、やったわね」
 とトイレのほうから女房の罵声が聞こえた。なんだろう、と思って行ってみると、女房がトレイの中でしゃがんで掃除をしている。
「どうして、こうなるの」と、こちらの顔を見て不思議そうに言った。
「さあな」と頭を掻き掻き部屋に戻った。
 齢をとると、深夜にも尿意をもよおしてトイレに行く。大抵は夢うつつの中、、ぼんやりした頭で放尿に及ぶ。
 その時、尿の筋がまっすぐに飛ぶとは限らない。不幸にも、最初の飛沫は便器の外に飛んでしまうことがある。慌てて軌道修正しても、すでに遅い。
 ということで、便器の外の床を汚してしまうことになる。
 もうひとつの不幸は、誰にでもあるわけではないが、尿の筋がふたつにわかれることがままある。三つというのはまだない。
 私の名誉のためにいうと、決して皮かむりではない。オチンチンの先端の尿道口がなにかの事情でひっついていることがある。
 そんな自覚があるわけではないから、放尿してはじめて二筋になっていることに気づく。一方を便器の中に飛ばすと、他方は便器の外に飛び出る。
 両方を便器の中に飛ばすのは、ちょっと無理で、慌てて腰を沈めるも、すでに遅い。
 やはり床を汚してしまう結果になる。男とは面倒なものなのである。尿の勢いが齢とともに、すでに弱っており、それも原因なのであろう。
 以上の事情を、多くの女性は知らない。説明してもピンとは来ない。わが家は子どもがいないから、特に女房には男のそういう生理が理解できないのであろう。
 最近は、男でも西洋便器に座って小便をするという。確かに女性よりは汚す機会が多くなるものではあるが、そんな沽券に関わることができようか、と思う。
 ただ自らが汚したものは、自らが始末しなければならないのが道理なのだが、そこまでは女房殿が要求しないからホッとしているが、このまま齢を重ね、いつまで堪忍袋の緒が無事でいられるかという保証はない。
 さて、どうしたものか、とまた寝る前に考えている。
  
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