『新潮45』がLGBTについて、過激な記事を掲載した。生産性がない、と指摘した杉田水脈や小川榮太郎が舌鋒鋭く持論を展開している。
読んだLGBTの支援者や理解者はさぞ不快な思いをしたろう。だから新潮社の看板に「フェイク」などと落書きをして留飲を下げている。
この問題は結局、LGBTを許容できるか、その反対に拒絶する、という2つの態度のせめぎ合いだ。だから人の心の問題に帰着するから、最終的にはどう思おうと自由なのである。
ただ反対派は、そういうLGBTの人たちが社会の中で一定の位置を占めるのが耐えられないのだろう。反対派から見れば、変態なのであって、一般の社会人ではないと思っている。これだって、そう思うのは自由で、だから雑誌に記事を寄稿したのであろう。
厳密にいえば、編集部の周りの空気を読めない編集者が大いに赤っ恥をかいたわけだが、ある波紋を投げたことも確か。強い否定はないものの、そういう人たちとは仲良くしたくないなあ、と思っている人は多い。その気持ちを増幅させて雑誌の記事にしてしまった。商売的には成功だろう。
許容派は、そういう人たちの存在が許されない。頑迷固陋、旧守派、分からず屋、人、というレッテルを貼りたがる。許容派のほうがいわば進歩派で、LGBTの人たちと仲良くやっていこう、という姿勢があるだろう。リベラルのポーズとして利用している輩もいよう。
結局、どこまで行っても平行線。時間が解決してくれる性格の問題だ。ただ決して自由な議論の場を封殺することはいただけない。『新潮45』に対抗して、許容派の論陣を張る雑誌があってもいい。そのキャッチボールが双方の理解を少しずつ前に進めることができる。
ひとつ指摘したいのは、LGBTの人たちは自らが一般の人と違うことは骨の髄まで分かっており、そのためにどれほど悩んだことだろう。十字架を背負って生きている人たちのことも考えなければならない。そういう一群の人たちが社会の中にいる、という認識はすべての人が持つべきではないか。
写真・カメラの情報はhttp://camerajoho.web.fc2.com/を参照。ユーチューブの団塊SONGSや団塊SONGSエッセーもそのページの下部のアイコンから入れます。お楽しみください。
読んだLGBTの支援者や理解者はさぞ不快な思いをしたろう。だから新潮社の看板に「フェイク」などと落書きをして留飲を下げている。
この問題は結局、LGBTを許容できるか、その反対に拒絶する、という2つの態度のせめぎ合いだ。だから人の心の問題に帰着するから、最終的にはどう思おうと自由なのである。
ただ反対派は、そういうLGBTの人たちが社会の中で一定の位置を占めるのが耐えられないのだろう。反対派から見れば、変態なのであって、一般の社会人ではないと思っている。これだって、そう思うのは自由で、だから雑誌に記事を寄稿したのであろう。
厳密にいえば、編集部の周りの空気を読めない編集者が大いに赤っ恥をかいたわけだが、ある波紋を投げたことも確か。強い否定はないものの、そういう人たちとは仲良くしたくないなあ、と思っている人は多い。その気持ちを増幅させて雑誌の記事にしてしまった。商売的には成功だろう。
許容派は、そういう人たちの存在が許されない。頑迷固陋、旧守派、分からず屋、人、というレッテルを貼りたがる。許容派のほうがいわば進歩派で、LGBTの人たちと仲良くやっていこう、という姿勢があるだろう。リベラルのポーズとして利用している輩もいよう。
結局、どこまで行っても平行線。時間が解決してくれる性格の問題だ。ただ決して自由な議論の場を封殺することはいただけない。『新潮45』に対抗して、許容派の論陣を張る雑誌があってもいい。そのキャッチボールが双方の理解を少しずつ前に進めることができる。
ひとつ指摘したいのは、LGBTの人たちは自らが一般の人と違うことは骨の髄まで分かっており、そのためにどれほど悩んだことだろう。十字架を背負って生きている人たちのことも考えなければならない。そういう一群の人たちが社会の中にいる、という認識はすべての人が持つべきではないか。
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