団塊の世代の世間話

60年を生きてきた思いを綴った「ゼロマイナス1 団塊の世代の世間話」を上梓し、その延長でブログを発信。

サッカーもヤジも同じ

2014-06-29 10:10:11 | Weblog
 最近のちょっとした話題は、日本サッカーの惨敗と都議会のヤジ問題だろう。どちらも根っ子は同じなんだろうな、という思いを強くする。
 日本サッカーはむろんいろいろな敗因はあるものの、みんな優等生でお利口さんサッカーをやっていたように見受けられた。
 ところがサッカーの本質は個人技で、最後はおれが決める、という強烈な意志力が決定する。ゴール前でひとりになっても逃げないで、ここでやってやろう、という貫徹力がモノをいう。それをみんなが期待している。
 南米サッカーが強いのは、そうしたハングリー精神が脈付いているからだろう。日本のサッカーは結局、そうした飢餓感がなく、みんながそれぞれ役割を決めて、その役割の中で仲良しサッカーをやっていたように見えた。
 それは、戦後教育の育んだ平等主義といえる。みんな一緒でハッピー、異物は排除する、という中流社会の恩恵だった。そこに本音と建前があり、建前のきれいごとで来てしまった。
 確かに日本人選手だって、海外で活躍する一流のメンバーだった。ところが日本人チームとなってしまうと、そこの中で強烈な個性が生かされず埋没してしまったのではないか。
 ヤジ問題については、女性蔑視発言でコトが大きくなってしまったが、こちらも女性の社会進出などの社会の方向性というきれいごと、旗印がまずあって、そこに社会の有り様を調整していくわけだが、実際はそれは建前で、男だって一部の女性だって、みんながそうした方向性に賛成しているわけではない。
 しかし、その本音は封印され、潜在化してくすぶり続けるのだ。それがなにかのきっかけで吹き出すのではないか。人の意識を変えていくのには時間がかかるし、社会の在り方だって変えるのには時間がかかる。
 とはいえ、人々の意識改革の前に、正義の旗振りが人々に正義を押し付け、好むと好まざるとに関わらず、それに合わせていくのが建前になってしまう。
 都議会の問題ではなく、まだこの国の男どもの意識は、女性蔑視あるいは女性軽視の中にいるということだろう。いい悪いではなく、それが現実である、という認識を持つことだ。
 つまりサッカーもヤジも、結局は日本の社会の底にたまった澱が生んだ結果なのだろう、と思う。それではどうしていくのか。
 いかに本音と建前の解消を図るかという努力と、人を押しのけてまで前に出ようという強烈な個性を社会が容認することだろう。
 ヤジの対象になった塩村議員を早速、メディアは叩いていた。誰でも脛に傷があるだろうし、それが人間なんだ、という寛容性も成熟した社会にはあるものである。ちょっとした瑕疵を許容できないのは、なんとも情けないものである。
 ただヤジ問題をここまで引っ張ったみんなの党は、何を狙っているのか。党のPRと塩村議員の国政進出か、という果実か。本当なら油断も隙もない話だ。
 バブル崩壊以降、ギスギスした社会になってしまった。豊かでも貧しくても、まず住みやすい社会になってほしい、と誰もが願っていよう。

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集団的自衛権疲れますね

2014-06-18 13:08:38 | Weblog
 最近はあまり政治向きのことには触れていないが、なんとも疲れるのは集団的自衛権の問題。一方の方々は、戦争できる国にするのは許せない、と決めつける。一方は平和ボケ日本、友好国を助けてこそ日本も一人前の国家になる、と声高に主張している。
 国連憲章は集団的自衛権を認めているから、日本は国連にしたがっており、日本国憲法は国際的には異端児なのに、あまり指摘されない。都合の悪いところは見ない、というのがひとつの性向である。
 しかし、国連憲章も欠陥品で、拒否権をいつまでも中国、ロシアが握っていて、にっちもさっちもいかないわけだ。
 ともあれ、前述の議論はまったくの平行線で、決して交わることはない。ということは議論ではなく、自分の意見を相手に押し付けているだけだ。
 ただ戦争をこれまで日本は避けてきたわけでなく、アメリカが軍事的に肩代わりしてきた事情がある。つまり自衛権云々という危機が出来しなかった幸運もあったといえる。
 しかし、なにかが変われば、どちらかがあきらめるという状況が惹起しよう。つまり中国と韓国の軍艦が黄海で接触、相手をミサイルなどで撃沈はできないから、せいぜい機関砲で渡り合っているところへ、自衛艦が接近。韓国側から救援の要請があり、自衛艦も中国艦へ砲撃した。
 というような危機的なアクシデントはあり得るだろう。あるいは、空中でも同じようなことが起こるかもしれない。この程度は戦争とはいわないが、こういう小競り合いなどはよくあることで、そういう時に自衛隊は知らん顔ができるのか、というのはやはり議論の的になろう。
 解釈より、憲法を改正したほうがいい、という意見もある。憲法を変える必要はあるだろうが、それをやっている時間がない、というのが安倍政権の考えだろう。そうこうしているうちに、一触即発の事態はあり得る。
 中国が利口なら、いまの日本はほっておいて、軍事的に平穏を保っていれば、ばたばたと集団的自衛権など決めないだろう。何が狙いか分からないが、空中でも尖閣でも危機的な状況をわざわざ作っている。それなら、日本も対応しよう、というのがいまの状況だ。
 ただいずれは:憲法は改正しなければならないだろう。国の根本の憲法に嘘があってはならない。軍隊を持たないのに、立派な自衛隊を持っている。憲法の上に国家があるとしたら、日本は虚偽国家になってしまおう。
 進駐軍からいただいた憲法を、ここまで遵守してくれば右も左もアメリカさんも文句はあるまい。これからは内外の情勢に応じて、憲法なんかどんどん変えていけばいいのである。人間が作ったのであれば、また人間が変えていくのである。9条教の方々も、そろそろ旗を降ろしたほうがいいのではないだろうか。

 エッセー「団塊SONGS」を配信中。原則的に日曜日にhttp://ameblo.jp/shiratorimn/にアップロードしています。エッセーで書いた歌は「団塊SONGS」(検索)で聴くことができます。カメラと写真の情報は「Web写真人」で。URLはhttp://shashinjin.digiweb.jp

とうとうスマホ

2014-06-08 08:32:15 | Weblog
 ガラケーで十分よ、とかねてから主張していたのだが、得意先のセミナーにスマホでプリントなどのデーマが出てくると、話の内容はチンプンカンプン。やっぱりスマホがないと仕事に差し支えるのかな、と思いはじめた。
 それであれこれ調べてみると、どうもウィルコムのスマホが通話やパケット料などが安いらしい、と分かった。しかし070というのがちょっと抵抗があったのだが、私がお目当てにしていた京セラのDIGNO DUAL2のスマホのレビューを読んでいると、ソフトバンクの080の番号も並行して使えることが分かった。
 なら、いいか、と近所のウィルコムのショップに電話をしたら、その機種は在庫なし、メーカー欠品でいつ入荷するか不明と来た。しょうがないなあ、と思い、ネットショップで調べたらオンラインで売っていた。
 早速申し込んだ。パケットはLiteでだれとでも定額のオプションだけを選んで契約した。月に通話料は別にして5000円ちょっと、頭金が3000円だった。ただナンバーポータビリティを適用すると、5000円程度の費用がかかった。初めてお金がかかることを知った。
 レビューを読むと、毎月の経費は6000円程度になるらしいが、他社のスマホよりはよほど安いだろう。これまでのソフトバンクのガラケーはだいたい3000円前後だったから、ほぼ倍になる勘定だ。
 ウィルコムのウェブサイトでは、ショートメールもできる、と明記してあった。ところが正式にはPHSはライトメールでショートメールはできないのが建前。しかし実際は070の番号から090/080へのショートメールは可能だった。そのまま返信すれば送信できるが、新規に070へショートメールを送ると送信できない、と表示が出る。制限付きの使用が可能というわけだが、仕様的には間違いといえる。
 もうひとつは、デュアル2の機種は、ソフトバンクの3G回線と070の両方が使えるわけだが、だれとでも定額は3Gでは使えないとのこと。つまり070同士ならOKで、ならあまり使う機会はないなあ、と思った。
 こういうことは、買ってみないと分からない。ショートメールの件は、ショップでも相談窓口でも分からないことだった。実際、ショートメールができてケータイもより一層使いやすくなったのは事実だから、早めの対応をお願いしたいものだ。
 それ以外のことは、まだ使いこなしていないから分からない。これまでのガラケーでも通話料はせいぜい1000円ぐらい。スマホになって増えるわけでもないし、インターネットをスマホで楽しもう、とも思っていない。結局、ガラケーの延長のような使い方になるのだろう。
 カメラ代わりの使い方はあるものの、この内蔵カメラは8Mながらシャープさはあまりないので、さほど期待できないだろう。これからアプリなどを少しずつ勉強して、有用なものをダウンロードしようと思っているし、外出先でネットを使って簡単な調べものはできるようになろう。
 問題は、電車に乗って早速スマホを取り出し、画面を凝視している姿だけは避けたい。音楽を聴きながら、車窓や周りの人々を観察していたほうが愉しいようだが、ああなる可能性も否定はできない。凝視派がなにを見ているのか、その心理はたぶん分かることになるのだろう。

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老いと歌と

2014-06-02 13:47:18 | Weblog
 なんとなく友人の死から抜け切れていない。やはり同業者で彼と親しくしていた友人も、似たような思いを抱いている。
 いつもいる人が、ある日突然いなくなるというのは、どういう意味があるのだろうか。ふつうは、親しい人が亡くなれば、お別れの葬儀があるだろう。それがひとつの儀式になって、それぞれ決別の気持ちを持つことができる。
 たまたま彼の場合は、家族が仕事上の連絡先を知らなくて、葬儀等が終わって、かなり経ってから、こちらに連絡があった。私も仕事上での付き合いではあったから、彼の死を知るべき関係先のセクションを、彼の家族に教えた。
 だから、彼の死に立ち会っていないし、まだ現実感がない。イベントなどにいると、やあ、といってまた彼が顔を出すような気持ちを拭い切れない。
 ということは、やっぱり葬儀などのお別れ会は必要なのか、とも思うが、私などは葉書一枚で、自分の死を知らせてほしい、と思っている。
 結局、人の死は、もう会えない、ということなのだ。たぶんそれだけだろうし、それ以上でもない。彼がどう生き、どう満足し、どう哀しんだか、未練はあったのか、などあれこれ考えてもきりがないことだろう。
 あいつに、もう会えない、としかいいようがない。それが哀しいのか、淋しいのか、どうでもいいのか、というのは、私の問題ではあるが、それもいずれは時間の中に消えていく。
 去るもの日々に疎し、という言葉があるが、死んでしまえばそうなのだろうが、生きてさえいれば、また会える。この希望は、なにものにも代え難いだろう。
 生きていることが、人間それぞれの生きる責任なのだろうと思う。最近、そんなことを思っていたら、加藤登紀子の『生きてさえいれば』という歌が、ラジオから流れていた。そうだなあ、こんな歌があったなあ、と思い出した。
 また歌に戻ってしまったが、人生を歌に託すことは多い。たぶん、歌の中にすべてが込められているのだろう。まだまだ歌い足りないのだろうか。
 死んだ彼も歌が好きだったが、人生を歌う、というタイプではなかった。私もそうではなく、ただ好きな歌を無理に歌いこなそうとするタイプだ。
 これからもきっと歌いたい歌を見つけ出すことだろう。好きな歌を納得できるように気持よく歌えなくなった時に、私はどういう状態にいるのだろうか。
 老いは確実に来る。すでにかなりな老いを背負っているのだが、生きているあいだは、好奇心を持ち続けたいものだ。

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