最近のちょっとした話題は、日本サッカーの惨敗と都議会のヤジ問題だろう。どちらも根っ子は同じなんだろうな、という思いを強くする。
日本サッカーはむろんいろいろな敗因はあるものの、みんな優等生でお利口さんサッカーをやっていたように見受けられた。
ところがサッカーの本質は個人技で、最後はおれが決める、という強烈な意志力が決定する。ゴール前でひとりになっても逃げないで、ここでやってやろう、という貫徹力がモノをいう。それをみんなが期待している。
南米サッカーが強いのは、そうしたハングリー精神が脈付いているからだろう。日本のサッカーは結局、そうした飢餓感がなく、みんながそれぞれ役割を決めて、その役割の中で仲良しサッカーをやっていたように見えた。
それは、戦後教育の育んだ平等主義といえる。みんな一緒でハッピー、異物は排除する、という中流社会の恩恵だった。そこに本音と建前があり、建前のきれいごとで来てしまった。
確かに日本人選手だって、海外で活躍する一流のメンバーだった。ところが日本人チームとなってしまうと、そこの中で強烈な個性が生かされず埋没してしまったのではないか。
ヤジ問題については、女性蔑視発言でコトが大きくなってしまったが、こちらも女性の社会進出などの社会の方向性というきれいごと、旗印がまずあって、そこに社会の有り様を調整していくわけだが、実際はそれは建前で、男だって一部の女性だって、みんながそうした方向性に賛成しているわけではない。
しかし、その本音は封印され、潜在化してくすぶり続けるのだ。それがなにかのきっかけで吹き出すのではないか。人の意識を変えていくのには時間がかかるし、社会の在り方だって変えるのには時間がかかる。
とはいえ、人々の意識改革の前に、正義の旗振りが人々に正義を押し付け、好むと好まざるとに関わらず、それに合わせていくのが建前になってしまう。
都議会の問題ではなく、まだこの国の男どもの意識は、女性蔑視あるいは女性軽視の中にいるということだろう。いい悪いではなく、それが現実である、という認識を持つことだ。
つまりサッカーもヤジも、結局は日本の社会の底にたまった澱が生んだ結果なのだろう、と思う。それではどうしていくのか。
いかに本音と建前の解消を図るかという努力と、人を押しのけてまで前に出ようという強烈な個性を社会が容認することだろう。
ヤジの対象になった塩村議員を早速、メディアは叩いていた。誰でも脛に傷があるだろうし、それが人間なんだ、という寛容性も成熟した社会にはあるものである。ちょっとした瑕疵を許容できないのは、なんとも情けないものである。
ただヤジ問題をここまで引っ張ったみんなの党は、何を狙っているのか。党のPRと塩村議員の国政進出か、という果実か。本当なら油断も隙もない話だ。
バブル崩壊以降、ギスギスした社会になってしまった。豊かでも貧しくても、まず住みやすい社会になってほしい、と誰もが願っていよう。
エッセー「団塊SONGS」を配信中。原則的に隔週の日曜日にhttp://ameblo.jp/shiratorimn/にアップロードしています。エッセーで書いた歌は「団塊SONGS」(検索)で聴くことができます。カメラと写真の情報は「Web写真人」で。URLはhttp://shashinjin.digiweb.jp
日本サッカーはむろんいろいろな敗因はあるものの、みんな優等生でお利口さんサッカーをやっていたように見受けられた。
ところがサッカーの本質は個人技で、最後はおれが決める、という強烈な意志力が決定する。ゴール前でひとりになっても逃げないで、ここでやってやろう、という貫徹力がモノをいう。それをみんなが期待している。
南米サッカーが強いのは、そうしたハングリー精神が脈付いているからだろう。日本のサッカーは結局、そうした飢餓感がなく、みんながそれぞれ役割を決めて、その役割の中で仲良しサッカーをやっていたように見えた。
それは、戦後教育の育んだ平等主義といえる。みんな一緒でハッピー、異物は排除する、という中流社会の恩恵だった。そこに本音と建前があり、建前のきれいごとで来てしまった。
確かに日本人選手だって、海外で活躍する一流のメンバーだった。ところが日本人チームとなってしまうと、そこの中で強烈な個性が生かされず埋没してしまったのではないか。
ヤジ問題については、女性蔑視発言でコトが大きくなってしまったが、こちらも女性の社会進出などの社会の方向性というきれいごと、旗印がまずあって、そこに社会の有り様を調整していくわけだが、実際はそれは建前で、男だって一部の女性だって、みんながそうした方向性に賛成しているわけではない。
しかし、その本音は封印され、潜在化してくすぶり続けるのだ。それがなにかのきっかけで吹き出すのではないか。人の意識を変えていくのには時間がかかるし、社会の在り方だって変えるのには時間がかかる。
とはいえ、人々の意識改革の前に、正義の旗振りが人々に正義を押し付け、好むと好まざるとに関わらず、それに合わせていくのが建前になってしまう。
都議会の問題ではなく、まだこの国の男どもの意識は、女性蔑視あるいは女性軽視の中にいるということだろう。いい悪いではなく、それが現実である、という認識を持つことだ。
つまりサッカーもヤジも、結局は日本の社会の底にたまった澱が生んだ結果なのだろう、と思う。それではどうしていくのか。
いかに本音と建前の解消を図るかという努力と、人を押しのけてまで前に出ようという強烈な個性を社会が容認することだろう。
ヤジの対象になった塩村議員を早速、メディアは叩いていた。誰でも脛に傷があるだろうし、それが人間なんだ、という寛容性も成熟した社会にはあるものである。ちょっとした瑕疵を許容できないのは、なんとも情けないものである。
ただヤジ問題をここまで引っ張ったみんなの党は、何を狙っているのか。党のPRと塩村議員の国政進出か、という果実か。本当なら油断も隙もない話だ。
バブル崩壊以降、ギスギスした社会になってしまった。豊かでも貧しくても、まず住みやすい社会になってほしい、と誰もが願っていよう。
エッセー「団塊SONGS」を配信中。原則的に隔週の日曜日にhttp://ameblo.jp/shiratorimn/にアップロードしています。エッセーで書いた歌は「団塊SONGS」(検索)で聴くことができます。カメラと写真の情報は「Web写真人」で。URLはhttp://shashinjin.digiweb.jp