団塊の世代の世間話

60年を生きてきた思いを綴った「ゼロマイナス1 団塊の世代の世間話」を上梓し、その延長でブログを発信。

どうなる集団的自衛権

2015-06-26 14:15:13 | Weblog
 安倍さんもますます泥濘に身動きならなくなってきている。それというのも、集団的自衛権のことである。集団的自衛権云々の解釈で結局、野党から攻められるわ、左の進歩的文化人が増上慢になるわ、といいことがない。
 そもそもターゲットは憲法改正である。その過程として集団的自衛権があるが、ここでこんなすったもんだしているのだから、憲法改正などは霞の向こうであろう。
 たぶん安倍さんは国連の常任理事国入りを狙っている。そのためには集団的自衛権が必要だ。国連は基本的には相互扶助で、助け合いの組織だ。ほとんどの国は集団的自衛権を保持している。日本だけが、個別的自衛権で国際的に通用するはずがない。ということは、国連の存立からいえば、日本は脱退するのが筋なのであろう。
 安倍さんも含め、石原慎太郎、橋下徹らは、右寄りの保守ではあるが、日本をふつうの国にしたい、という指向が強い。ふつうの国とは、戦勝国から与えられた憲法を後生大事に守るのではなく、国民的合意に基づいて自主憲法を制定して、その精神によって国を運営することを意味する。真の独立国にすることではないか。
 日本人が海外でテロに遭えば、速やかに救出に向かう軍隊がいること。北朝鮮による拉致などは、日本の憲法によって北朝鮮は守られているから、あれほどの犯罪行為を行ったのだ。恥知らずの極道のやることだろう。憲法改正に反対している方々は、拉致に協力しているといってもいい。
 憲法9条によって、北朝鮮も中国もあるいは韓国だって、日本をなめている。なにをやっても何もできないと高を括っているのだ。それを打開するのが、まず集団的自衛権であるだろうが、国会のあの体たらくでは前にも進めない。
 結局、集団的自衛権から入ったのが間違いだった。やはり堂々と憲法改正を旗印にすべきではないか。そういうと、どこからかすぐにいつか来た道、などと情緒論に引きずるメディアが現れる。もう全面戦争はないだろうし、戦争は高度なプロフェッショナル同士の戦いに様相を変えている。太平洋戦争の玉砕的な戦いは繰り返されることはないし、相手がまともな国家なら外交で解決するし、テロや侵略ならば、国連のそれぞれの国が応分の負担によって戦うわけだ。
 それができるのが集団的自衛権。また暑い夏がやってくる。またあの異常な戦争の状況が喧伝される。当時の人々の心は美しかったために、その悲惨さがクローズアップされるが、彼らが戦った意味は、もう戦争をしないことではなく、同胞を見捨てない、ふつうの国になることではないか。
 
 エッセー「団塊SONGS」を配信中。原則的に隔週の日曜日にhttp://ameblo.jp/shiratorimn/にアップロードしています。エッセーで書いた歌は「団塊SONGS」(検索)で聴くことができます。カメラと写真の情報は「Web写真人」で。URLはhttp://shashinjin.digiweb.jp

カフェでのある体験

2015-06-18 14:23:02 | Weblog
 安いコーヒーを飲ませるカフェはありがたい。長く居ても目立たないし、コーヒー一杯で粘れる。取材の時間などで間が開くと、利用することが多い。
 先日、こんな体験をした。ブレンドコーヒーを頼んで2階に上がり好みの席についた。読みかけの文庫本を開くと、妙に耳障りな声が気に耳に入った。
 さほど近い席にいるわけではないが、ずっと携帯で長電話をしている中年のおっさんがいた。割りと耳に響く声で、電話を切ったりかけたりしている。内容を漏れ聞くと、時々何億円という大金の話をしている。
 ははあん、たぶん不動産ブローカーだな、と見当をつけた。これが1時間以上も話し続けている。いい加減うんざりである。話し声ならいいのだが、電話の声というのは耳障りなものである。
 それにしても、まだこんな日本人がいたんだなあ、いい齢をしているし、周りのことを気にしないのかな、と無神経さに呆れる思いだった。いい加減、店の人が注意をしたらどうか、と思っていると、突如怒鳴り声が店内に響いた。
「こらあ、あんた、いつまで電話しているんだ、自分の事務所じゃあるまいし、みんな迷惑しているんだ、ここをどこだと思っているだ」
 振り返ると、60ぐらいのやはりおっさんが、その男の前に仁王立ちになっている。言われた方は黙ってしまい、やがて姿を消した。
 まあ、よく言ってくれた、と思ってはみたものの、これがたちの悪い男だったら、殴り合いの喧嘩にもなっていよう。言う方もちょっと言葉が乱暴である。日本人は頭に来ると、言葉を選ばない。ついつい乱暴な非難口調になってしまう。
 長電話の男が悪いのは決まっているとしても、少しは遠慮してください、と男のそばに寄って低い声で注意すべきなのだろう。それが丸く収めるコツなのではあるが、やはり店の人を呼んで、店から注意を促すのが筋であろう。
 こうしたカフェには、けっこうブローカー的な人間が集まって、あれこれ画策している様子をよく見る。たいていは人相風体が良くない。誰が利用しようと関知することではないが、不愉快な連中もいることは確かだ。
 それにしても、こんな馬鹿に何億円の取引をまかせるだろうか。よくニュースで偽の投資話に乗って大金を損した、と報じているが、被害者も欲をかき過ぎだろう。欲が強いから騙されるし、相手を見抜く目も曇るというものではないか。大金がない私には無縁の話ではあるが。
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吉田健一の文章

2015-06-08 13:45:31 | Weblog
「どんより曇った空の下に豚の子のように太った鯉が蝦を漁って更に肉をつけている沼の滑かな水面が鈍光を湛えている風情である」
 これは誰の文章かというと、吉田健一である。前述した『古本の愉しみ』の中に、吉田健一にも触れた。さっき読んでいて、この文章に行き当たった。出されたカレーを表現しているのであるが、状況は夢の中の話である。
 当然ながら、こんなことを書いて、正確にどんなカレーライスか分かるわけがない。いわばお遊びではあるのだが、吉田健一はきっと酒と食というものに対して、いかに文章で表現できるか、ということに挑戦した作家だったと思う。現在でも、そのエッセーは名文の誉れが高い。
 別に私は吉田健一にそれほどの思い込みはないものの、その文章をこよなく愛している。さほどの厳密性はなく、なんとなく雲を上を歩いているような自由度が感じられるのである。そういう味合いを持っている。
 あまり偉そうなことはいえないが、文章というのは、結局頭に浮かんだイメージを文字にする作業なのである。多少は適性があるとはいえ、イメージを文に変換できるならOKなのである。
 自分なりに納得したい文章を書きたいという人のために、アドバイスをするとしたら、頭の中のイメージを紙やモニターに書いみることだ。書くと、ひとつの形がそこに現れる。それがリアリティであり、それをまた読むことによって、もっとイメージがはっきりしてくる。
 ただそれだけでは終わらす、たぶんそれを推敲して、はじめてひとつのイメージ=文章が明確になる。実際、作家というのはそれを日常繰り替えしているのである。
 決して完璧はないところが、文章の苦しいところである。あるいは表現といってもいいが、見事に書けた、と思っても、時間が経つと、ああすれば良かった、あそこを直せばもっと良くなった、と悩むものである。
 結局、どんな大家でも文章は妥協の産物であるだろう。ただ世に出て、どれだけの人が評価するかで決まる。小説ならストーリーもあって、評価の基準がまた違ってくるが、エッセーはまさに文章が問われる表現である。
『酒肴酒』の中に「理想は、酒ばかり飲んでいる身分になることで、次には、酒を飲まなくても飲んでいるのと同じ状態に達することである。球磨焼酎を飲んでいる時の気持を目指して生きて行きたい」という一節がある。
 作者特有の酒に対する愛情の表現なのである。どちらかといえば、文章が走るほうで、それが特有の味わいを生んでいる。また古本を探しみようか。
 
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