失態も失態。大失態……
19歳の女の子に、一服盛られて眠ってしまい、その子と性行為をしているように見える写真を撮られてしまった……らしい。
その写真が慶に送られてきたそうで、慶は仕事を早退して助けにきてくれた。写っていたソファーが、陶子さんの家のものだとすぐに気がついたそうだ。
眠っていて記憶がないし、その写真はすべて削除してくれたらしいので現物も見ていないから、いまだに信じられない。でも、半端ない慶の怒り加減を見ると本当のことなんだと思う…。
慶はものすごく怒っている。陶子さんのマンションから駅に向かって歩く間もずっと黙っていた。慶は本気で怒ると話さなくなるので余計にこわいのだ。罵倒されたほうがまだマシだ。
「……慶?」
一番近くて、うちの最寄り駅へも一本で行ける駅への入り口を素通りし、歩いていってしまう慶。
なんだなんだ?と思いながらついていくと、そのまま歩き続け、コンビニに入り、下着とYシャツを購入…。
「???」
そして、コンビニを出て、歩きながら携帯をいじっていたかと思ったら、クルッと振り返った。
「今日帰らないけど、大丈夫だよな?」
「……え?」
帰らない? 帰らないというのは……
「慶、どこ行くの……?」
怒りのあまり、おれとは一緒にいたくないということだろうか……
そうだよな……一服盛られて記憶がないとはいえ、他の女に触れられたおれなんて……
地の底に落ちていく感覚にとらわれて、立っているのもやっとのおれに、慶が携帯の画面をつきだしてきた。
「ここ。今、予約取れた」
「え」
画面に写っているのはホテルの予約完了を知らせるメール。
「ホテル……?」
宿泊予定人数、大人2名。2名……。
「お前、今着てるもの全部捨てるからな」
「!」
慶のトゲトゲした声にハッとする。さっきコンビニで買ってたのは、おれの着替えだったのか。
「全身、擦り切れるまで洗ってやる。覚悟しとけ」
「慶………」
泣きたくなってきた。
思いっきり抱きしめたくなった。
でも、今は我慢……汚れたこの体で慶に触るわけにはいかない。
「塩買うか、塩。やっぱりお清めといったら塩だよな……」
「………」
慶はブツブツいいながら歩いていく。
塩……。痛そうだけど、もう、なんでもいい。慶の気が済むならなんでもする。
「あと、ズボンも買うから、そこ入るぞ。帰ったらそれも捨てるから安いのでいいな」
「う、うんっ」
なんでもいい。慶が許してくれるなら……。
***
「………で?」
あかねが、コーヒーのカップを持ち上げ、首を傾げた。
「慶君、許してくれたの?」
「……わかんない」
「わからない?」
眉を寄せたあかねにコクコク肯いてみせる。
「前に目黒さんがおれに怪我させたときも、慶ものすっごい怒って大変だったけど、結局は、おれが目黒さんのこと助けたいって気持ちを理解してくれて……」
しかも、今やおれよりも慶の方が頻繁に樹理亜と連絡を取りあっているので、ちょっと嫉妬してたりする。
「でも今回は……」
「んー……樹理が言ってたけど、かなり衝撃的な写真だったらしいわよ? あんた見てないんでしょ?」
「うん……」
そんな写真を見た時の慶の気持ちを思うといたたまれない。おれだったら相手の女を殺しかねない。
「あれからこの話してないんだよ。こわくてできない」
「そりゃそうね……」
あの日、塩で洗われながら(本当に塩一袋使った)、
「お前は隙がありすぎる。ちょっとは警戒しろ」
と、怒られたのが最後、この一週間、全くこの話題には触れていない。
「なんとなくギクシャクしてる気もするし……」
「うん」
「普通な気もするし……」
「どっちよ?」
呆れたように言うあかねに、頬を膨らませてみせる。
「だから、わかんないんだって」
「あーそう……。ねえ、このことあってから、した?」
「………」
ぐっと詰まる。人が気にしてることを………。
「……一週間しないことなんて普通だし」
「あっそう。してないんだ? できない雰囲気?」
「………」
黙ってしまったおれに、あかねがひらひらと手を振る。
「ギクシャク解消にはスキンシップが一番手っ取り早いわよ? 明日日曜だし、今晩誘ってみたら?」
「………断られたら立ち直れない」
「その時はその時。あんたがどっぷり落ち込んだら、慶君助けてくれるでしょ。それはそれであり」
「他人事だと思って………」
「他人事だもーん」
にっこりと笑ったあかねだったけれど、ふいに表情をあらためた。
「ララから連絡は?」
「ラインすぐにブロックしたからもうない」
「賢明ね」
肯くあかね。
あの子は慶の心を傷つけた。それはどうしても許せない。
あの子の今後が心配……と、教師魂が疼きはするのだけれど、これ以上慶を傷つけることだけは絶対にできない。
「三好羅々にはもう二度と関わらないつもり」
「そうね。陶子さんもその方がいいっていってたわ」
「うん……中途半端に関わって申し訳なかったよ。……あ、そうだ」
ふと、以前から気になっていたことを聞いてみる。
「三好羅々って、陶子さんとはどういう関係なの?」
「あー……」
ちょっと躊躇してから、あかねが答えてくれた。
「姪っ子、らしいわよ。歳の離れた妹の子供って聞いてる」
「姪………」
全然似てないな……。三好羅々に陶子さんみたいな一本筋の通った強さがあれば……。
あかねはこの話題を続けたくないらしく、パッと口調を変えた。
「ねえ、お母さんの件はどうなったのよ?」
「あー……それね……」
先週の土曜日は、この騒ぎで、心療内科クリニックの予約をすっぽかしてしまったので、二週間ぶりに今日行ってきた。そこで、内心複雑になることを聞かされた。
「なんか……あの人も通いはじめたらしい。心療内科」
「ふーん?」
あかねは実母と縁を切っている。おれとあかねを結びつけたのは、親との確執という共通点なのだ。あかねには、慶にも話すことのできない本音を話すことができる。
「正直さ……おれ、今でも両親には二度と会いたくないって気持ちに変わりないんだよね…」
「でも、会いにくるかもしれないって怯えて暮らすのも嫌よね」
「そうなんだよね……。それに、また慶の家族に迷惑かけたら困るし」
慶には絶対に言えないけれど……おれは両親が死ぬまでは日本に帰らないつもりだった。冷たいといわれようと、受け入れられないものは受け入れられない。
でも、そのおれのわがままに慶を付き合わせるわけにはいかない。慶が帰国したことを喜んでいる慶のご両親を再び悲しませるわけにもいかない。
なんとか、落としどころを見つけて、日本でも平穏に暮らせるようにならなければ。慶のために。
「まあ……とりあえず、自分の精神状態を安定させることが先決ね。でも、それはずいぶんいいんでしょ?」
「うん。おかげさまで。……でも、せっかく上手くいってたのに、この騒ぎでさ……」
生まれて初めて、こんなに安定した精神状態でいることができていたのに……
自分のガードの甘さにうんざりしてしまう。
あの日、三好羅々から、「カレー作ったから食べに来て」と誘われマンションを訪れ、「樹理もすぐ帰ってくるから先に食べよう」という言葉を鵜呑みにしてカレーをいただき……気がついたら、ソファーに寝ていて、慶と樹理亜に心配そうにのぞかれていて……。
まさか、カレーに睡眠薬が入っていたなんて……そんな変な写真を撮られていたなんて……
思い出せば思い出すほど、あの日の自分を殴って止めたくてしょうがない……。
どーんと落ち込んでいるおれに、あかねが明るく言う。
「まあ大丈夫よ。塩でお清めして慶君だって気がすんでるってきっと。今晩頑張んなさいよ」
「………」
慶が帰ってくるまであと少し……。
慶の好物の一つであるビーフストロガノフも作った。お気に入りのケーキ屋のケーキも買った。あとはなんて切り出すかだ……。
***
慶は普通に「ただいま」と帰ってきた。
そして、普通にご飯を食べ終わって、食器を片付けている最中に、あっさりと言った。
「これ片付け終わったらジム行ってくる」
「……………あ、うん」
やっぱりおれと一緒にいたくないんだ……いやいやいや、慶がスポーツジムにいくなんていつものことじゃないか。いつも通りに過ごしてるだけだ……頭の中でぐるぐると色々な思いが回ってクラクラしてくる。
「あと片づけるからいいよ? いってらっしゃい」
内心のぐるぐるを押し殺して普通の顔をして言うと、慶は「おー悪いな。さんきゅー」と言って、出ていってしまった。
「…………大丈夫」
平日は、ジムは11時までやっているけれど、土曜日は10時までだ。いつもよりも早く帰ってきてくれる……。
さっさと片づけて、風呂にも入り、読みかけの本を読んで待っていたけれど……10時を過ぎても帰ってこない……。
(何かあったのかな………)
電話しようかな………うるさいって思われるかな……。
そう思いながら携帯をみていたら、メールの着信があった。慶だ。
『浜中さん達と飲みに行くことになったから先寝てて』
「…………」
浜中さんというのは、ジムのトレーナーさん。おれたちと同年代だと思われる女性。『達』ということは、他の若い女の子達も一緒ということだろう。
「………そうですか」
浜中さん達と飲みに行くこともたまにある。だから特別なことじゃない。ことじゃないけど……。
「…………」
さすがに落ち込む……。
おれの定休日は土曜と日曜。慶は火曜と日曜。だから唯一、二人とも翌日が休みである土曜の夜は貴重なのに……。
普段の日は、翌日の仕事に響かないよう、あまり夜更かししないようにしてるため、この一週間、何もしなかったのは特別なことではなく、普段通りのことといえば普段通りのことなのだ。
でも、あんなことがあったあとなので、ちょっとは何かあってほしかった。でも、一切触れてもこなかった慶……。だからせめて、あれから初めての土曜の夜である今晩は、おれのこと気にしてほしかったのに……。
(いや……違うな)
気にしてるからこそ、おれに触れたくなくて、帰ってこないってことなんじゃないか……?
(どうすればいいんだろう……)
でも、もう、どうしようもない。起こったことは取り消せない。
慶がやっぱり許せないというのなら………もうどうしようもないじゃないか。
慶はやっぱり、他の奴に触れられてしまったおれに、触れたくないんだろうな……。
(………寝よう)
ほとんどふて寝状態でベッドに横になったけれど、全然眠れない。今頃浜中さん達とどんな話してるんだろう、とか悶々と思ってしまい、ますます眠れない……
(慶………会いたいよ)
触れたい。抱きしめたい。声が聞きたい。
(帰ってきてくれなかったらどうしよう……)
そんな不安を胸に抱えたまま、どれくらい時がたったのだろうか……
「!」
鍵を開ける音がして、ハッとする。
慶! 帰ってきてくれた!
「ただいま……」
小さな声。それから時計を外す音、携帯を置く音。手を洗う音、うがいをする音……。すべてが愛おしい。布団の中で、慶のたてる音に耳をそばだてる。それだけで幸福感に包まれる。慶がいてくれる……。
しばらくして、シャワーの音がしてきた。そしてドライヤーの音。歯磨きの音……。
「………」
それから、足音も立てずにベッドの脇に気配が移った。じっと見下ろされている気配……
「……浩介」
小さく、つぶやくように、名前を呼ばれた。今さら起きているなんていえず、寝たふりを続ける。
すると、慶はベッドを迂回して、反対側からそっと布団の中に入ってきた。
いつも右におれ、左に慶が寝ている。なんでそうなったのかは覚えていないのだけれど、若い頃からの定位置なのだ。
「…………」
このまま寝ちゃうのかな……。慶、いつも即寝なんだよな……。さりげなく慶の方を向いて、今起きたアピールすればいいのかな……
そんなことを心の中で思っていたら……
「!」
慶の手が腰に回ってきて、背中からぎゅうっと抱きつかれた。
(慶………触れてくれた)
心臓がつかまれたように痛くなる。
愛しさが溢れて、涙が出てくる……
「…………慶」
「あ……ごめん。起こしたか」
背中におでこをくっつけたまま慶が言う。
「ううん。起きてた」
「なんだ。だったら返事………、浩介?」
上から顔をのぞきこまれ、あわてて背けようとしたけど遅かった。
「お前………泣いてる? どうした?」
「…………」
優しい慶の声、涙をぬぐってくれる白い指………
「なんでもないよ」
なんとか平静を装った声で答えたが、慶はハッとしたように触れていた手を離し、なぜかおもむろにベッドの上で正座した。
「なんでもなくて泣くかよ」
慶の真剣な顔。目を合わせられない……。
「だからなんでもないよ」
「本当のこと言えよ」
逃げられない瞳。真っ直ぐにこちらを見下ろしてくる。
そして、慶は言った。
「お前、やっぱりまだ痛いのか?」
「だから………………え?」
え?
「え?」
痛い?
「痛いって………?」
「だから、触るとまだ痛いんだろ?」
「え……?」
……なんの話?
おれも起き上がって、慶の真似をして正座する。
「なんの話?」
「なんのって……」
眉を寄せたまま慶が言う。
「だから、塩なんかでゴシゴシ体擦ったから、触られるとまだ痛いんだろ?」
「……………はい?」
なんだそれ?
「おれ、大人げなかったよな……。あの日は頭に血がのぼってて、それで塩なんかで……」
「…………」
「ごめん」
正座のまま、頭を下げてくる慶……
「あの……」
声が乾く。
「それで慶、この一週間、おれに触れてこなかったの……?」
「だってお前、痛そうだったから。まだ痛いなんて、やっぱり病院に……」
「………慶」
言葉の途中の慶の唇をふさぐ。驚いたように離れようとした慶の頭を抱え込む。一週間ぶりの唇……
「こう……」
「ん………」
ゆっくりとベッドに押し倒し、その愛おしい頬を囲って、おでこを合わせる。
「お前……」
「全然痛くないよ? 確かに次の日まではちょっとヒリヒリしてたけど」
「じゃあなんで……」
慶が遠慮がちにおれの頬に触れてくる。
「じゃあなんでここ最近、風呂から出てくるの早かったんだよ?」
「………え」
「それにジムにも行かなくなったし」
「それは……」
お風呂から出てくるのが早かったのは、慶との時間を少しでも長く取りたかったから。
ジムに行ってないのは、ジムで他人のように接するのがつらかったから。
「なんだ……そうだったんだ」
正直に答えると、慶はホッとしたように息をはいた。
「おれはてっきり、水に浸かると痛いからなのかと……」
「…………」
顔を見合わせ、苦笑してしまう。
「ダメだな。おれ達。何年付き合ってんだって話だな。思ってることちゃんと言わないとだな」
「うん……」
「ごめんな」
触れるだけのキス。心が震える。
慶……慶。大好きな慶。
「あ、そういえばな」
ついばむようなキスの嵐をとめて、慶が思いついたように言った。
「スポーツジムのスタッフには、おれたちのことバレてたぞ」
「え」
バレてた?
「住所一緒だしな」
「そっか……」
一応気をつかって、慶は丁目番地は棒線でつなぎ、マンション名も書いてないって言ってたから、おれは〇丁目〇番ときっちり書き、マンション名も記入したんだけど……意味なかったか。
慶はおれの指を軽く噛みながら話を続ける。
「でも最近、おれたちジムの中で他人のフリしてたし、この一週間お前が来ないから、喧嘩でもしたのかって心配してくれててな」
「え……」
「今日の帰りにそのことで浜中さんに呼び止められて……まあそれで立ち話もなんだから飲みに行ったんだよ」
「…………」
なんだかなあ……わかってしまえばすべて納得のいく話で……
悩んでたおれ、何だったんだろう……
「気にしないで一緒にくればいいっていってくれてたぞ? だから明日一緒にいかねえか?」
「………うん。行く」
「でもくれぐれも人前でイチャイチャベタベタはするなってさ」
「なにそれ」
笑ってしまう。慶も笑いながら再びおれの腰に腕をまわした。
「だから今のうちにイチャイチャベタベタしようぜ?」
「……ん」
一週間分を取り戻すような、長い長いキスのあと、慶の唇がおれの首筋に下りてきた。
「んんっ、慶……」
痕がついてしまいそうなくらい強く吸われ、足の先まで電流が走る。
「お前はおれのものだからな……」
ささやくようにいいながら、慶の唇は肩に胸に腰に下りてくる。
優しく包まれながら、おれは幸福に浸る。
「慶……大好き」
「ん………」
土曜の夜はゆっくりと更けていく……。
-------------
以上です。長くなってしまいました。……って、いつものことですね。
お読みくださりありがとうございました!
何でも話せることがいいってわけではありませんが、大切なことはちゃんと話しましょうって話でした。
まあ、そんなこといいながら、慶さん、本心は言ってません。
本当はララとのこと、まだまだムカついてます。最後のキスマークも、「お前はおれのものだからな」ってセリフもそこからきてます。
でも浩介には言いません。言ってもどうしようもない話だしね。
そんな感じで。次は慶視点ですかね。
次回もよろしければ、お願いいたします!
---
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19歳の女の子に、一服盛られて眠ってしまい、その子と性行為をしているように見える写真を撮られてしまった……らしい。
その写真が慶に送られてきたそうで、慶は仕事を早退して助けにきてくれた。写っていたソファーが、陶子さんの家のものだとすぐに気がついたそうだ。
眠っていて記憶がないし、その写真はすべて削除してくれたらしいので現物も見ていないから、いまだに信じられない。でも、半端ない慶の怒り加減を見ると本当のことなんだと思う…。
慶はものすごく怒っている。陶子さんのマンションから駅に向かって歩く間もずっと黙っていた。慶は本気で怒ると話さなくなるので余計にこわいのだ。罵倒されたほうがまだマシだ。
「……慶?」
一番近くて、うちの最寄り駅へも一本で行ける駅への入り口を素通りし、歩いていってしまう慶。
なんだなんだ?と思いながらついていくと、そのまま歩き続け、コンビニに入り、下着とYシャツを購入…。
「???」
そして、コンビニを出て、歩きながら携帯をいじっていたかと思ったら、クルッと振り返った。
「今日帰らないけど、大丈夫だよな?」
「……え?」
帰らない? 帰らないというのは……
「慶、どこ行くの……?」
怒りのあまり、おれとは一緒にいたくないということだろうか……
そうだよな……一服盛られて記憶がないとはいえ、他の女に触れられたおれなんて……
地の底に落ちていく感覚にとらわれて、立っているのもやっとのおれに、慶が携帯の画面をつきだしてきた。
「ここ。今、予約取れた」
「え」
画面に写っているのはホテルの予約完了を知らせるメール。
「ホテル……?」
宿泊予定人数、大人2名。2名……。
「お前、今着てるもの全部捨てるからな」
「!」
慶のトゲトゲした声にハッとする。さっきコンビニで買ってたのは、おれの着替えだったのか。
「全身、擦り切れるまで洗ってやる。覚悟しとけ」
「慶………」
泣きたくなってきた。
思いっきり抱きしめたくなった。
でも、今は我慢……汚れたこの体で慶に触るわけにはいかない。
「塩買うか、塩。やっぱりお清めといったら塩だよな……」
「………」
慶はブツブツいいながら歩いていく。
塩……。痛そうだけど、もう、なんでもいい。慶の気が済むならなんでもする。
「あと、ズボンも買うから、そこ入るぞ。帰ったらそれも捨てるから安いのでいいな」
「う、うんっ」
なんでもいい。慶が許してくれるなら……。
***
「………で?」
あかねが、コーヒーのカップを持ち上げ、首を傾げた。
「慶君、許してくれたの?」
「……わかんない」
「わからない?」
眉を寄せたあかねにコクコク肯いてみせる。
「前に目黒さんがおれに怪我させたときも、慶ものすっごい怒って大変だったけど、結局は、おれが目黒さんのこと助けたいって気持ちを理解してくれて……」
しかも、今やおれよりも慶の方が頻繁に樹理亜と連絡を取りあっているので、ちょっと嫉妬してたりする。
「でも今回は……」
「んー……樹理が言ってたけど、かなり衝撃的な写真だったらしいわよ? あんた見てないんでしょ?」
「うん……」
そんな写真を見た時の慶の気持ちを思うといたたまれない。おれだったら相手の女を殺しかねない。
「あれからこの話してないんだよ。こわくてできない」
「そりゃそうね……」
あの日、塩で洗われながら(本当に塩一袋使った)、
「お前は隙がありすぎる。ちょっとは警戒しろ」
と、怒られたのが最後、この一週間、全くこの話題には触れていない。
「なんとなくギクシャクしてる気もするし……」
「うん」
「普通な気もするし……」
「どっちよ?」
呆れたように言うあかねに、頬を膨らませてみせる。
「だから、わかんないんだって」
「あーそう……。ねえ、このことあってから、した?」
「………」
ぐっと詰まる。人が気にしてることを………。
「……一週間しないことなんて普通だし」
「あっそう。してないんだ? できない雰囲気?」
「………」
黙ってしまったおれに、あかねがひらひらと手を振る。
「ギクシャク解消にはスキンシップが一番手っ取り早いわよ? 明日日曜だし、今晩誘ってみたら?」
「………断られたら立ち直れない」
「その時はその時。あんたがどっぷり落ち込んだら、慶君助けてくれるでしょ。それはそれであり」
「他人事だと思って………」
「他人事だもーん」
にっこりと笑ったあかねだったけれど、ふいに表情をあらためた。
「ララから連絡は?」
「ラインすぐにブロックしたからもうない」
「賢明ね」
肯くあかね。
あの子は慶の心を傷つけた。それはどうしても許せない。
あの子の今後が心配……と、教師魂が疼きはするのだけれど、これ以上慶を傷つけることだけは絶対にできない。
「三好羅々にはもう二度と関わらないつもり」
「そうね。陶子さんもその方がいいっていってたわ」
「うん……中途半端に関わって申し訳なかったよ。……あ、そうだ」
ふと、以前から気になっていたことを聞いてみる。
「三好羅々って、陶子さんとはどういう関係なの?」
「あー……」
ちょっと躊躇してから、あかねが答えてくれた。
「姪っ子、らしいわよ。歳の離れた妹の子供って聞いてる」
「姪………」
全然似てないな……。三好羅々に陶子さんみたいな一本筋の通った強さがあれば……。
あかねはこの話題を続けたくないらしく、パッと口調を変えた。
「ねえ、お母さんの件はどうなったのよ?」
「あー……それね……」
先週の土曜日は、この騒ぎで、心療内科クリニックの予約をすっぽかしてしまったので、二週間ぶりに今日行ってきた。そこで、内心複雑になることを聞かされた。
「なんか……あの人も通いはじめたらしい。心療内科」
「ふーん?」
あかねは実母と縁を切っている。おれとあかねを結びつけたのは、親との確執という共通点なのだ。あかねには、慶にも話すことのできない本音を話すことができる。
「正直さ……おれ、今でも両親には二度と会いたくないって気持ちに変わりないんだよね…」
「でも、会いにくるかもしれないって怯えて暮らすのも嫌よね」
「そうなんだよね……。それに、また慶の家族に迷惑かけたら困るし」
慶には絶対に言えないけれど……おれは両親が死ぬまでは日本に帰らないつもりだった。冷たいといわれようと、受け入れられないものは受け入れられない。
でも、そのおれのわがままに慶を付き合わせるわけにはいかない。慶が帰国したことを喜んでいる慶のご両親を再び悲しませるわけにもいかない。
なんとか、落としどころを見つけて、日本でも平穏に暮らせるようにならなければ。慶のために。
「まあ……とりあえず、自分の精神状態を安定させることが先決ね。でも、それはずいぶんいいんでしょ?」
「うん。おかげさまで。……でも、せっかく上手くいってたのに、この騒ぎでさ……」
生まれて初めて、こんなに安定した精神状態でいることができていたのに……
自分のガードの甘さにうんざりしてしまう。
あの日、三好羅々から、「カレー作ったから食べに来て」と誘われマンションを訪れ、「樹理もすぐ帰ってくるから先に食べよう」という言葉を鵜呑みにしてカレーをいただき……気がついたら、ソファーに寝ていて、慶と樹理亜に心配そうにのぞかれていて……。
まさか、カレーに睡眠薬が入っていたなんて……そんな変な写真を撮られていたなんて……
思い出せば思い出すほど、あの日の自分を殴って止めたくてしょうがない……。
どーんと落ち込んでいるおれに、あかねが明るく言う。
「まあ大丈夫よ。塩でお清めして慶君だって気がすんでるってきっと。今晩頑張んなさいよ」
「………」
慶が帰ってくるまであと少し……。
慶の好物の一つであるビーフストロガノフも作った。お気に入りのケーキ屋のケーキも買った。あとはなんて切り出すかだ……。
***
慶は普通に「ただいま」と帰ってきた。
そして、普通にご飯を食べ終わって、食器を片付けている最中に、あっさりと言った。
「これ片付け終わったらジム行ってくる」
「……………あ、うん」
やっぱりおれと一緒にいたくないんだ……いやいやいや、慶がスポーツジムにいくなんていつものことじゃないか。いつも通りに過ごしてるだけだ……頭の中でぐるぐると色々な思いが回ってクラクラしてくる。
「あと片づけるからいいよ? いってらっしゃい」
内心のぐるぐるを押し殺して普通の顔をして言うと、慶は「おー悪いな。さんきゅー」と言って、出ていってしまった。
「…………大丈夫」
平日は、ジムは11時までやっているけれど、土曜日は10時までだ。いつもよりも早く帰ってきてくれる……。
さっさと片づけて、風呂にも入り、読みかけの本を読んで待っていたけれど……10時を過ぎても帰ってこない……。
(何かあったのかな………)
電話しようかな………うるさいって思われるかな……。
そう思いながら携帯をみていたら、メールの着信があった。慶だ。
『浜中さん達と飲みに行くことになったから先寝てて』
「…………」
浜中さんというのは、ジムのトレーナーさん。おれたちと同年代だと思われる女性。『達』ということは、他の若い女の子達も一緒ということだろう。
「………そうですか」
浜中さん達と飲みに行くこともたまにある。だから特別なことじゃない。ことじゃないけど……。
「…………」
さすがに落ち込む……。
おれの定休日は土曜と日曜。慶は火曜と日曜。だから唯一、二人とも翌日が休みである土曜の夜は貴重なのに……。
普段の日は、翌日の仕事に響かないよう、あまり夜更かししないようにしてるため、この一週間、何もしなかったのは特別なことではなく、普段通りのことといえば普段通りのことなのだ。
でも、あんなことがあったあとなので、ちょっとは何かあってほしかった。でも、一切触れてもこなかった慶……。だからせめて、あれから初めての土曜の夜である今晩は、おれのこと気にしてほしかったのに……。
(いや……違うな)
気にしてるからこそ、おれに触れたくなくて、帰ってこないってことなんじゃないか……?
(どうすればいいんだろう……)
でも、もう、どうしようもない。起こったことは取り消せない。
慶がやっぱり許せないというのなら………もうどうしようもないじゃないか。
慶はやっぱり、他の奴に触れられてしまったおれに、触れたくないんだろうな……。
(………寝よう)
ほとんどふて寝状態でベッドに横になったけれど、全然眠れない。今頃浜中さん達とどんな話してるんだろう、とか悶々と思ってしまい、ますます眠れない……
(慶………会いたいよ)
触れたい。抱きしめたい。声が聞きたい。
(帰ってきてくれなかったらどうしよう……)
そんな不安を胸に抱えたまま、どれくらい時がたったのだろうか……
「!」
鍵を開ける音がして、ハッとする。
慶! 帰ってきてくれた!
「ただいま……」
小さな声。それから時計を外す音、携帯を置く音。手を洗う音、うがいをする音……。すべてが愛おしい。布団の中で、慶のたてる音に耳をそばだてる。それだけで幸福感に包まれる。慶がいてくれる……。
しばらくして、シャワーの音がしてきた。そしてドライヤーの音。歯磨きの音……。
「………」
それから、足音も立てずにベッドの脇に気配が移った。じっと見下ろされている気配……
「……浩介」
小さく、つぶやくように、名前を呼ばれた。今さら起きているなんていえず、寝たふりを続ける。
すると、慶はベッドを迂回して、反対側からそっと布団の中に入ってきた。
いつも右におれ、左に慶が寝ている。なんでそうなったのかは覚えていないのだけれど、若い頃からの定位置なのだ。
「…………」
このまま寝ちゃうのかな……。慶、いつも即寝なんだよな……。さりげなく慶の方を向いて、今起きたアピールすればいいのかな……
そんなことを心の中で思っていたら……
「!」
慶の手が腰に回ってきて、背中からぎゅうっと抱きつかれた。
(慶………触れてくれた)
心臓がつかまれたように痛くなる。
愛しさが溢れて、涙が出てくる……
「…………慶」
「あ……ごめん。起こしたか」
背中におでこをくっつけたまま慶が言う。
「ううん。起きてた」
「なんだ。だったら返事………、浩介?」
上から顔をのぞきこまれ、あわてて背けようとしたけど遅かった。
「お前………泣いてる? どうした?」
「…………」
優しい慶の声、涙をぬぐってくれる白い指………
「なんでもないよ」
なんとか平静を装った声で答えたが、慶はハッとしたように触れていた手を離し、なぜかおもむろにベッドの上で正座した。
「なんでもなくて泣くかよ」
慶の真剣な顔。目を合わせられない……。
「だからなんでもないよ」
「本当のこと言えよ」
逃げられない瞳。真っ直ぐにこちらを見下ろしてくる。
そして、慶は言った。
「お前、やっぱりまだ痛いのか?」
「だから………………え?」
え?
「え?」
痛い?
「痛いって………?」
「だから、触るとまだ痛いんだろ?」
「え……?」
……なんの話?
おれも起き上がって、慶の真似をして正座する。
「なんの話?」
「なんのって……」
眉を寄せたまま慶が言う。
「だから、塩なんかでゴシゴシ体擦ったから、触られるとまだ痛いんだろ?」
「……………はい?」
なんだそれ?
「おれ、大人げなかったよな……。あの日は頭に血がのぼってて、それで塩なんかで……」
「…………」
「ごめん」
正座のまま、頭を下げてくる慶……
「あの……」
声が乾く。
「それで慶、この一週間、おれに触れてこなかったの……?」
「だってお前、痛そうだったから。まだ痛いなんて、やっぱり病院に……」
「………慶」
言葉の途中の慶の唇をふさぐ。驚いたように離れようとした慶の頭を抱え込む。一週間ぶりの唇……
「こう……」
「ん………」
ゆっくりとベッドに押し倒し、その愛おしい頬を囲って、おでこを合わせる。
「お前……」
「全然痛くないよ? 確かに次の日まではちょっとヒリヒリしてたけど」
「じゃあなんで……」
慶が遠慮がちにおれの頬に触れてくる。
「じゃあなんでここ最近、風呂から出てくるの早かったんだよ?」
「………え」
「それにジムにも行かなくなったし」
「それは……」
お風呂から出てくるのが早かったのは、慶との時間を少しでも長く取りたかったから。
ジムに行ってないのは、ジムで他人のように接するのがつらかったから。
「なんだ……そうだったんだ」
正直に答えると、慶はホッとしたように息をはいた。
「おれはてっきり、水に浸かると痛いからなのかと……」
「…………」
顔を見合わせ、苦笑してしまう。
「ダメだな。おれ達。何年付き合ってんだって話だな。思ってることちゃんと言わないとだな」
「うん……」
「ごめんな」
触れるだけのキス。心が震える。
慶……慶。大好きな慶。
「あ、そういえばな」
ついばむようなキスの嵐をとめて、慶が思いついたように言った。
「スポーツジムのスタッフには、おれたちのことバレてたぞ」
「え」
バレてた?
「住所一緒だしな」
「そっか……」
一応気をつかって、慶は丁目番地は棒線でつなぎ、マンション名も書いてないって言ってたから、おれは〇丁目〇番ときっちり書き、マンション名も記入したんだけど……意味なかったか。
慶はおれの指を軽く噛みながら話を続ける。
「でも最近、おれたちジムの中で他人のフリしてたし、この一週間お前が来ないから、喧嘩でもしたのかって心配してくれててな」
「え……」
「今日の帰りにそのことで浜中さんに呼び止められて……まあそれで立ち話もなんだから飲みに行ったんだよ」
「…………」
なんだかなあ……わかってしまえばすべて納得のいく話で……
悩んでたおれ、何だったんだろう……
「気にしないで一緒にくればいいっていってくれてたぞ? だから明日一緒にいかねえか?」
「………うん。行く」
「でもくれぐれも人前でイチャイチャベタベタはするなってさ」
「なにそれ」
笑ってしまう。慶も笑いながら再びおれの腰に腕をまわした。
「だから今のうちにイチャイチャベタベタしようぜ?」
「……ん」
一週間分を取り戻すような、長い長いキスのあと、慶の唇がおれの首筋に下りてきた。
「んんっ、慶……」
痕がついてしまいそうなくらい強く吸われ、足の先まで電流が走る。
「お前はおれのものだからな……」
ささやくようにいいながら、慶の唇は肩に胸に腰に下りてくる。
優しく包まれながら、おれは幸福に浸る。
「慶……大好き」
「ん………」
土曜の夜はゆっくりと更けていく……。
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以上です。長くなってしまいました。……って、いつものことですね。
お読みくださりありがとうございました!
何でも話せることがいいってわけではありませんが、大切なことはちゃんと話しましょうって話でした。
まあ、そんなこといいながら、慶さん、本心は言ってません。
本当はララとのこと、まだまだムカついてます。最後のキスマークも、「お前はおれのものだからな」ってセリフもそこからきてます。
でも浩介には言いません。言ってもどうしようもない話だしね。
そんな感じで。次は慶視点ですかね。
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