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サウンドシティ~リアル・トゥ・リール 2 トム・ペティ、リック・スプリングフィールド編
サウンドシティの記事の続きです。
さて、新生フリートウッドマックの大成功を受け、経営も軌道に乗ったスタジオ『サウンド・シティ』。
ドキュメンタリー映画で次にフューチャーされるのがトム・ペティ&ハートブレーカーズです。
映画の流れではフリートウッドマックのパート→ドラムサウンドについてのパート→トム・ペティのパート→スタジオのスタッフの紹介→プロデューサーのパート→リックのパート
という感じになっています。
サウンドシティスタジオの特徴の二つ目として、何が良かったのか、『ドラムのために特別に作られたわけではないスタジオなのに、なぜかドラムの音がとても素晴らしく録音できる』という幸運がありました。
名プロデューサーのリック・ルービンは
「スタジオを決めるときはドラムの音を基準にする。どこで録音してもギターの音は大差ない。だがドラムの音は全く違う。」と言います。
「図面だけを見るとドラム向きとは思えない。ただの四角いハコだ」と語るのは名ドラマーのジム・ケルトナー。
他の出演者の発言もとても興味深いですので、映画未見の方、お楽しみに。
では音楽パートに戻ります。
③トム・ペティ&ハートブレーカーズ『破壊』制作秘話
フリートウッドマックのアルバムヒットを受け、サンタナ、グレイトフルデッドといった大物バンドもサウンドシティで録音し大ヒットを記録します。
70年代後期、フォリナー、チープトリック、REOスピードワゴンと続く中、トム・ペティ&ハートブレーカーズが『破壊』(1979年)をこのスタジオで録音しました。
この映画にとっても貴重だったのは、当時のレコーディングの模様が写真だけではなく、映像として残っていたことでしょう。
まだ若いバンドメンバーや、ジミー・アイオヴォンなどの貴重な映像で、音楽ファンにはたまりません。
1976年(55位)、1978年(23位)のアルバムに満足していなかった彼らは『サードアルバムこそまともなものにしたかった。』という思いでレコーディングに明け暮れます。
トム・ペティ(ヴォーカル&ギター)『ハートブレーカーズが一緒に演奏したのもサウンド・シティのスタジオだった』
マイク・キャンベル(ギター)『俺たちはなんにも準備もできていない、曲もない、演奏も下手だった』
ベンモント・テンチ(ピアノ、キーボード)『自分の演奏を聴くのは惨めだった、スピーカーで再生した時はあまりのひどさに落ち込んだ』
「余計なエフェクトはかけない、ごまかしは一切しない、卓に立ちあがった音をそのままテープに録音する、それがサウンドシティの音作りだ」と語るのは名プロデューサーのジム・スコット。
「3枚目こそまともなアルバムを」(マイク)「奇跡をおこしたかった」(トム)「逃亡者は150回は演奏したかな」「難しいスタジオだ」(ベンモント)そんな思いでアルバム作りにかけていたバンドメンバーは、ジミー・アイオヴォンをエンジニアとして雇います。ジミーはブルース・スプリングスティーンやジョン・レノンのアルバムのエンジニアですが、2人ともライヴ録音でオーヴァーダビングをいっさい行わないません。ライヴ録りはすべてに完璧さが求められます。演奏できないと成立しません。
バンドメンバーはそんな仕事を経験してきたジミーをエンジニアとして雇ったつもりでしたが、ジミーは勝手に自分をプロデューサーに昇格させて(笑)代わりのエンジニアを連れてきたそうな。
かくして、アシスタント(ジミー・ヤクス)を連れてきたジミーと、トム・ペティ、マイク・キャンベル、ベンモント・テンチ、スタン・リンチ(ドラムス)、ロン・ブレア(ベース)の、『最高のアルバムを作ろう』というレコーディング作業が始まります。
時にはぶつかり合い、ピリピリした雰囲気になりながらも、「いいものを作りたいという向上心」に突き動かされ、
録音しては『良かったよ』『まだ何か物足りない』『じゃあもう一回やってみよう』その繰り返しが続きました。
Tom Petty And The Heartbreakers - Refugee
映画では当時の様子を振り返ってのコメントや音楽に対する思いがトム、ベンモント、マイクによって語られてます。
わたしはこの映画の中で、この部分に、、、トムとマイクの言葉に一番感銘を受けました。この言葉を聞けただけでも、サウンド・シティを見て良かったなと思います。
『破壊』(原題:Damn the Torpedoes)は7週連続ビルボード2位を獲得(年間チャートでは5位)の大ヒットでした。
Making of Refugee - Tom Petty [clip for educational purposes]
これは別の映画から。『逃亡者』のメイキングビデオ
④リック・スプリングフィールド編
さて、映画ではトム・ペティ&ハートブレーカーズのあとはスタジオの魅力的なスタッフや名プロデューサーたちについて語られます。
この音楽スタジオからかなり優秀な人材が育つわけですが、その筆頭はキース・オルセン、、になるのかな?
このパートでキース・オルセンがニコニコ嬉しそうに、「受付のアシスタントをしていた女の子がバーバラで、のちにリックと結婚した子だ」と暴露。
リックが普通に「当時16,7歳で、電話番をしてた。みんながデートに誘いたがっていた」と言ってますが、、むかし付き合ってたリンダ・ブレアもけっこう若かった(15、6だったかと。。。)、、、
まあ今では大問題でしょうが、あの頃はおおらかな時代だったんだろうなあ・苦笑
さて、少しでもリック・スプリングフィールドが好きという方がいらっしゃるならば、この映画は観て損はありません!
主演じゃないから見てない方も多いかもしれませんけども、、、、リックファンなら買いです、はい。
(さっき映画の中で一番感銘を受けたのはトム・ペティとマイク・キャンベルとかほざいておきながらなんですが、まあそれとこれとは別なんですー)
サウンドシティの、精神的リーダーであったジョーゴットフリードこそがリック・スプリングフィールドのアメリカでの親代わりといってもいい人物でした。
ジョーはオーストラリアからアメリカに進出したものの、5年もアルバムを出していなかったリックを支えます。
住む場所、車を与え、演劇を学ばせて大ヒットドラマのレギュラー出演をもぎとり、成功に導きます。
リック『当時の出演料は週給500ドルだった。初めての定期収入だった』
売れていない分時間だけはたくさんあったリックは、スタジオの空き時間、合間を縫ってレコーディングに明け暮れていました。
ジョー(とトム・スキーター)はそんなリックの才能を信じてキース・オルセンにプロデュースを依頼します。
たくさんの曲の中からキースが選んだのは後に全米ナンバーワンヒットとなり、グラミーも獲得にもつながる『ジェシーズガール』でした。
Rick Springfield, "Jessie's Girl (Demo Version)"
リックは「もっと激しい曲もあったのに、キースがこれを選んだのは意外だった」と述べています。
「キースは僕のギターが嫌いで別のギタリストを連れてきた。全く嫌なやつだろ・苦笑」というリックに対してキースは「アーティストの将来を考えたらキツイことも言わざるを得ない」と。
Rick Springfield - Jessie's Girl
パット・ベネターのバンドのギタリスト(で、旦那様でもある)のニール・ジェラルドはリックと出会って15分後にはレコーディングに入ったそうですが、
このときのリックの愛犬(アルバムジャケットでもおなじみのビッグテリア、ロン)とニールのエピソードは笑えます。
ロンが壁に噛みついたおかげでぼろいスタジオはますますぼろぼろになった模様ですが・・・笑
Rick Springfield Jessie's Girl
こちらは昨年、リックのライブにニールが参加したもの。
楽しそうでいいですね。
映画の中盤以降で、サウンドシティの凋落が描かれますが、そのまず第一段階はリックがサウンドシティを去ったあたりに兆候が見えています。
(日本の音楽雑誌では「マネージメントの変更」や「音楽業界からしばらく離れ俳優に専念」としか書かれていません。)
親代わりとまで慕っていた恩人ジョーとの決別について、リックは深くは語りませんが「ジョーとの別れはとても後悔している」「だから亡くなる前のジョーに会えたのは救いだ」と。
もう一人の経営者のトム・スキーターは「ジョーはリックが出て行ったことにショックを受けていたが、私は驚かなかった」とこちらはビジネスライク。
リックはマネージャーを変更し、キースが独立して作ったスタジオで佳作「ロック・オブ・ライフ」を作ったのち、約10年音楽シーンから遠ざかりました。
近年になってからの著書やインタビューで「世界中のいかなる神とも交信してなかった10年」と述べています。
ファンとしては今はこうして音楽に帰ってきてくれているので嬉しいです。少しでも長く歌い続けてほしい人です。
PAT BENATAR & NEIL GIRALDO (Live) Heartbreaker/Ring of Fire/Heartbreaker (Carolina Theatre 04/23/13)
おまけ。
このライヴ、実は別の曲でリックがゲスト参加しているのですが、、、パット・ベネターとニールといったら、やはり『ハートブレーカー』でしょう。
さて、サウンドシティの凋落はもう少し後の話。
映画の中のリックのパートの最後で、、、
トム・スキーター「何人も契約した。どのアーティストもヒットすると信じていた。(結局売れたのはリックだけ。グラミー賞受賞)RCAからは100万ドル以上受け取ったよ」
リック「ジョーの強運と魔法のスタジオのおかげだった。あの汚いスタジオが急に世間の注目を集めた。」
と述べられて、80年代に次々と大物アーティストが録音していった様子が描かれます。
バリー・マニロウ「1枚しか録ってないが、どこよりも家庭的だった」
トム「家族とまではいわなくとも、いつも和やかな空気が漂っていた」
さて、新生フリートウッドマックの大成功を受け、経営も軌道に乗ったスタジオ『サウンド・シティ』。
ドキュメンタリー映画で次にフューチャーされるのがトム・ペティ&ハートブレーカーズです。
映画の流れではフリートウッドマックのパート→ドラムサウンドについてのパート→トム・ペティのパート→スタジオのスタッフの紹介→プロデューサーのパート→リックのパート
という感じになっています。
サウンドシティスタジオの特徴の二つ目として、何が良かったのか、『ドラムのために特別に作られたわけではないスタジオなのに、なぜかドラムの音がとても素晴らしく録音できる』という幸運がありました。
名プロデューサーのリック・ルービンは
「スタジオを決めるときはドラムの音を基準にする。どこで録音してもギターの音は大差ない。だがドラムの音は全く違う。」と言います。
「図面だけを見るとドラム向きとは思えない。ただの四角いハコだ」と語るのは名ドラマーのジム・ケルトナー。
他の出演者の発言もとても興味深いですので、映画未見の方、お楽しみに。
では音楽パートに戻ります。
③トム・ペティ&ハートブレーカーズ『破壊』制作秘話
フリートウッドマックのアルバムヒットを受け、サンタナ、グレイトフルデッドといった大物バンドもサウンドシティで録音し大ヒットを記録します。
70年代後期、フォリナー、チープトリック、REOスピードワゴンと続く中、トム・ペティ&ハートブレーカーズが『破壊』(1979年)をこのスタジオで録音しました。
この映画にとっても貴重だったのは、当時のレコーディングの模様が写真だけではなく、映像として残っていたことでしょう。
まだ若いバンドメンバーや、ジミー・アイオヴォンなどの貴重な映像で、音楽ファンにはたまりません。
1976年(55位)、1978年(23位)のアルバムに満足していなかった彼らは『サードアルバムこそまともなものにしたかった。』という思いでレコーディングに明け暮れます。
トム・ペティ(ヴォーカル&ギター)『ハートブレーカーズが一緒に演奏したのもサウンド・シティのスタジオだった』
マイク・キャンベル(ギター)『俺たちはなんにも準備もできていない、曲もない、演奏も下手だった』
ベンモント・テンチ(ピアノ、キーボード)『自分の演奏を聴くのは惨めだった、スピーカーで再生した時はあまりのひどさに落ち込んだ』
「余計なエフェクトはかけない、ごまかしは一切しない、卓に立ちあがった音をそのままテープに録音する、それがサウンドシティの音作りだ」と語るのは名プロデューサーのジム・スコット。
「3枚目こそまともなアルバムを」(マイク)「奇跡をおこしたかった」(トム)「逃亡者は150回は演奏したかな」「難しいスタジオだ」(ベンモント)そんな思いでアルバム作りにかけていたバンドメンバーは、ジミー・アイオヴォンをエンジニアとして雇います。ジミーはブルース・スプリングスティーンやジョン・レノンのアルバムのエンジニアですが、2人ともライヴ録音でオーヴァーダビングをいっさい行わないません。ライヴ録りはすべてに完璧さが求められます。演奏できないと成立しません。
バンドメンバーはそんな仕事を経験してきたジミーをエンジニアとして雇ったつもりでしたが、ジミーは勝手に自分をプロデューサーに昇格させて(笑)代わりのエンジニアを連れてきたそうな。
かくして、アシスタント(ジミー・ヤクス)を連れてきたジミーと、トム・ペティ、マイク・キャンベル、ベンモント・テンチ、スタン・リンチ(ドラムス)、ロン・ブレア(ベース)の、『最高のアルバムを作ろう』というレコーディング作業が始まります。
時にはぶつかり合い、ピリピリした雰囲気になりながらも、「いいものを作りたいという向上心」に突き動かされ、
録音しては『良かったよ』『まだ何か物足りない』『じゃあもう一回やってみよう』その繰り返しが続きました。
Tom Petty And The Heartbreakers - Refugee
映画では当時の様子を振り返ってのコメントや音楽に対する思いがトム、ベンモント、マイクによって語られてます。
わたしはこの映画の中で、この部分に、、、トムとマイクの言葉に一番感銘を受けました。この言葉を聞けただけでも、サウンド・シティを見て良かったなと思います。
Damn the Torpedoes | |
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Geffen Records |
『破壊』(原題:Damn the Torpedoes)は7週連続ビルボード2位を獲得(年間チャートでは5位)の大ヒットでした。
Making of Refugee - Tom Petty [clip for educational purposes]
これは別の映画から。『逃亡者』のメイキングビデオ
クラシック・アルバムズ:ダム・ザ・トーピードウズ [DVD] | |
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ヴェリタ・ノーテ |
④リック・スプリングフィールド編
さて、映画ではトム・ペティ&ハートブレーカーズのあとはスタジオの魅力的なスタッフや名プロデューサーたちについて語られます。
この音楽スタジオからかなり優秀な人材が育つわけですが、その筆頭はキース・オルセン、、になるのかな?
このパートでキース・オルセンがニコニコ嬉しそうに、「受付のアシスタントをしていた女の子がバーバラで、のちにリックと結婚した子だ」と暴露。
リックが普通に「当時16,7歳で、電話番をしてた。みんながデートに誘いたがっていた」と言ってますが、、むかし付き合ってたリンダ・ブレアもけっこう若かった(15、6だったかと。。。)、、、
まあ今では大問題でしょうが、あの頃はおおらかな時代だったんだろうなあ・苦笑
さて、少しでもリック・スプリングフィールドが好きという方がいらっしゃるならば、この映画は観て損はありません!
主演じゃないから見てない方も多いかもしれませんけども、、、、リックファンなら買いです、はい。
(さっき映画の中で一番感銘を受けたのはトム・ペティとマイク・キャンベルとかほざいておきながらなんですが、まあそれとこれとは別なんですー)
サウンドシティの、精神的リーダーであったジョーゴットフリードこそがリック・スプリングフィールドのアメリカでの親代わりといってもいい人物でした。
ジョーはオーストラリアからアメリカに進出したものの、5年もアルバムを出していなかったリックを支えます。
住む場所、車を与え、演劇を学ばせて大ヒットドラマのレギュラー出演をもぎとり、成功に導きます。
リック『当時の出演料は週給500ドルだった。初めての定期収入だった』
売れていない分時間だけはたくさんあったリックは、スタジオの空き時間、合間を縫ってレコーディングに明け暮れていました。
ジョー(とトム・スキーター)はそんなリックの才能を信じてキース・オルセンにプロデュースを依頼します。
たくさんの曲の中からキースが選んだのは後に全米ナンバーワンヒットとなり、グラミーも獲得にもつながる『ジェシーズガール』でした。
Rick Springfield, "Jessie's Girl (Demo Version)"
リックは「もっと激しい曲もあったのに、キースがこれを選んだのは意外だった」と述べています。
「キースは僕のギターが嫌いで別のギタリストを連れてきた。全く嫌なやつだろ・苦笑」というリックに対してキースは「アーティストの将来を考えたらキツイことも言わざるを得ない」と。
Rick Springfield - Jessie's Girl
パット・ベネターのバンドのギタリスト(で、旦那様でもある)のニール・ジェラルドはリックと出会って15分後にはレコーディングに入ったそうですが、
このときのリックの愛犬(アルバムジャケットでもおなじみのビッグテリア、ロン)とニールのエピソードは笑えます。
ロンが壁に噛みついたおかげでぼろいスタジオはますますぼろぼろになった模様ですが・・・笑
Rick Springfield Jessie's Girl
こちらは昨年、リックのライブにニールが参加したもの。
楽しそうでいいですね。
映画の中盤以降で、サウンドシティの凋落が描かれますが、そのまず第一段階はリックがサウンドシティを去ったあたりに兆候が見えています。
(日本の音楽雑誌では「マネージメントの変更」や「音楽業界からしばらく離れ俳優に専念」としか書かれていません。)
親代わりとまで慕っていた恩人ジョーとの決別について、リックは深くは語りませんが「ジョーとの別れはとても後悔している」「だから亡くなる前のジョーに会えたのは救いだ」と。
もう一人の経営者のトム・スキーターは「ジョーはリックが出て行ったことにショックを受けていたが、私は驚かなかった」とこちらはビジネスライク。
リックはマネージャーを変更し、キースが独立して作ったスタジオで佳作「ロック・オブ・ライフ」を作ったのち、約10年音楽シーンから遠ざかりました。
近年になってからの著書やインタビューで「世界中のいかなる神とも交信してなかった10年」と述べています。
ファンとしては今はこうして音楽に帰ってきてくれているので嬉しいです。少しでも長く歌い続けてほしい人です。
PAT BENATAR & NEIL GIRALDO (Live) Heartbreaker/Ring of Fire/Heartbreaker (Carolina Theatre 04/23/13)
おまけ。
このライヴ、実は別の曲でリックがゲスト参加しているのですが、、、パット・ベネターとニールといったら、やはり『ハートブレーカー』でしょう。
さて、サウンドシティの凋落はもう少し後の話。
映画の中のリックのパートの最後で、、、
トム・スキーター「何人も契約した。どのアーティストもヒットすると信じていた。(結局売れたのはリックだけ。グラミー賞受賞)RCAからは100万ドル以上受け取ったよ」
リック「ジョーの強運と魔法のスタジオのおかげだった。あの汚いスタジオが急に世間の注目を集めた。」
と述べられて、80年代に次々と大物アーティストが録音していった様子が描かれます。
バリー・マニロウ「1枚しか録ってないが、どこよりも家庭的だった」
トム「家族とまではいわなくとも、いつも和やかな空気が漂っていた」
Working Class Dog | |
クリエーター情報なし | |
Sbme Special Mkts. |
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サウンドシティ~リアル・トゥ・リール 1 スタジオ草創期~新生フリートウッド・マック編
デイヴ・グロール監督作品映画『サウンドシティ』の感想は少し前のエントリで書きましたが、今回は映画でクローズアップされていた音楽について。(サウンドトラックについてではありません)
ずっと書きかけのままほったらかしでしたが、これ以上ほっとくと忘れそうなのでアップ。
ネタバレしてますので、映画をこれからまっさらな気持ちで見たい人はご用心。
http://en.wikipedia.org/wiki/Sound_City_Studios サウンドシティ・スタジオ wiki、全てではないですが、このスタジオでレコーディングされた主だったアルバムが載っています。
サウンドシティのオーナーはトム・スキーターとジョー・ゴットフリートでした。
実業家で投資売買をしていたトムと、陸軍の慰問歌手で、その後音楽スタジオを経営していたジョー。のちに名プロデューサーとなるキース・オルセンはジョーがトムと別の人と経営していた録音スタジオのエンジニアでした。
キースによると経営はアップアップでしたが、スタジオがつぶれなかったのはトムがスタジオの入っていたビルの所有者だったからです。
トムはビートルズやプレスリーのブームの時代、音楽ビジネスが伸びていくと踏んで、音楽会社を買収し、ジョーと一緒にサウンドシティを設立しました。
最初はとにかく経営が大変で、テリー・サバラスでもヴィンセント・プライスでも、なんでもかんでも録音したとか。
①ニール・ヤング
スタジオ草創期の名盤としてまず触れられているのがニール・ヤングの『アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ』です。
アフター・ザ・ゴールド・ラッシュ | |
クリエーター情報なし | |
ワーナーミュージック・ジャパン |
After the Gold Rush | |
クリエーター情報なし | |
Reprise / Wea |
名プロデューサーのキース・オルセンやニール・ヤング本人が語る、スタジオに乗り付ける際、車が目立つからか、パトカーにすぐ止められたエピソードは、いかにも「らしいな」って感じです。
このアルバムはニール・ヤングがまだクロスビー、スティルズ、ナッシュ&ヤングとして活動しているときに出されたニールの3枚目のソロアルバムでした。
わたしはニール・ヤングのソロですと2枚目とこの3枚目が好きです。
特にこの3枚目はピアノの弾き語りの曲もギターの曲も名曲揃い。フォークの大傑作だと思います。
ニールによると、『アフター・ザ・ゴールドラッシュ』は大半を自宅で録音していたそうですが、ブリッグスと『バーズ』をサウンドシティで録音した時、ヴォーカルの音が気に入って、残りの曲はすべてサウンドシティで歌ったそうです。『自宅録音とサウンドシティのハイブリッドで両者の特徴が出ている』と語っています。
で。ここで映画で流れる曲が、、、あのピアノの美しい「バーズ」でもなく、「サザン・マン」でもなく、、「アイ・キャン・リアリー・ラヴ」
When You Dance I Can Really Love - Neil Young
②二―ヴ・コンソールシステムの導入~バッキンガム・ニックス~新生フリートウッド・マック
ひたすらいい音楽を求めていた職人気質のジョーと、実務に長けたトム。
ただ待ってるだけじゃ駄目だ、大物が飛びつくいい機材を導入したいということで、トムは当時家2軒分の値段がしたという(7万5千ドル以上)二―ヴのコンソールを購入しました。
映画では二―ヴがいかに優れているかを紹介したあと、、、
キース・オルセンが「最初に二―ヴを使って録音したのは『バッキンガム・ニックス』の『Crying in the Night』だ。」と語ります。
(バッキンガム・ニックスのこの曲がおさめられたレコードは現在廃盤で、CD化を切に願います)
Buckingham Nicks - Crying in the Night
リンジー・バッキンガム(ギター、パーカッション、ヴォーカル)とスティーヴィー・ニックス(ヴォーカル)による男女デュオグループ。
このアルバム作りに参加したミュージシャンは
Ronnie Tutt / drums
Jim Keltner / drums
Jerry Scheff / bass guitar
Gary Hodges / drums, percussion overdubs
Monty Stark / synthesizer
Peggy Sandvig / keyboards
Jorge Calderón / percussion
Waddy Wachtel / additional guitar on "Lola (My Love)"
Richard Hallagan / string arrangement
という、、、、凄いメンバーですねぇ。
リンジーは「トムとジョーは僕たちの親同然だ」と語っています。「でもきっかけはキースだ」と。
トムとジョーは才能豊かな2人を見込んで契約し、曲作りは全て2人に任せ、スタジオ、エンジニア、録音テープを提供したそうです。
そのエンジニアはもちろんキースで、彼はプロデュースも担当しました。
リンジーとスティーヴィーはロスに出てきたとき、キース・オルセンの家に居候していました。リンジーは絵を描いて売り、スティーヴィーはキースの家を掃除していました。
スティーヴィーは「いつまでも家政婦と思わないで」と当時よく言ってたとか。
1973年のこのアルバムは評価はされましたが、結局商業的には成功せず、バッキンガム・ニックスはレコード会社の契約を切られてしまいます。
Buckingham Nicks - Frozen Love
さて、当時『安く借りられるスタジオを探していた』というミック・フリートウッド。
フリートウッド・マックのドラマーです。
彼が雑貨店で相談した男性が、トムのところへ行って、「バンドを10%の手数料で紹介する」と持ち掛けます。
ミック・フリートウッドがスタジオを訪れた際、キースがバッキンガム・ニックスの音源を聴かせました。
その時スタジオBにいたリンジーとスティーヴィー。
(トムによると「契約を切られて行き場を失っていた」そうですが、とにかく時間があればスタジオにこもって楽曲を作っていたのでしょうね。)
休憩でスタジオBを出たリンジーは、スタジオAから聴こえる自分たちの曲、「フローズン・ラヴ」に引き寄せられて覗きに行きます。
『でかい男がリズムをとってた。何者だろうって思ったよ』(リンジー・バッキンガム)
さて、フリートウッド・マックは当時すでにヒットを放っていたバンドでしたが、オリジナルメンバーであるギタリスト、ピーター・グリーンが抜けて、後任のギタリストはボブ・ウェルチでした。
ただ、ボブはジャズ寄りで、バンドとの方向性は異なっていたそうです。
ボブが脱退した時にミック・フリートウッドは「サウンドシティで会った時はただすれ違った程度の男」であるリンジー・バッキンガムを思い出します。
いそいそとキースに「前に聴かせてくれたよな、あのギタリストが欲しい」と電話しますが、キースは「言っとくけど、リンジーはスティーヴィーと一緒じゃなくちゃ引き受けないぞ」と忠告。
というわけで、カップルまとめてフリートウッド・マックに吸収されました。
スティーヴィーによると『1975年の元日にフリートウッドマックに参加したわ。すぐにスタジオに入った。』
新生フリートウッド・マックはこうして誕生しました。
もしピーターが抜けてなかったら?ボブが続けていたら?ミックが雑貨屋に寄り道しなければ?ちゃっかり紹介屋が居合わせなかったら?
バッキンガム・ニックスがここで録音してなかったら?
そして、、、ミック・フリートウッドがサウンドシティのドラムの音を気に入らなかったら?
ミックは「あそこを選んだのは、ドラムの音がよかったからかもしれん」と言ってます。スタジオ代の安さだけじゃないんですね・笑
リンジーも「ドラムの音が良かったからうまくいったんだよ」と。
ほんとに人の縁とは不思議です。
音楽的バックボーンの全く異なる2人の加わった新生フリートウッド・マック。
1975年のアルバム制作時は「とても素晴らしい、夢のような時間だった」とキースとミックが語っています。
1975年のアルバム「フリートウッド・マック(邦題はファンタスティック・マック)」はバンド初のビルボード1位を獲得し、プラチナにも認定されました。
1978年のアルバム「噂」は31週にわたって1位を獲得し、グラミー賞の最優秀アルバム賞を得ました。
「噂」レコーディング当時はジョン&クリスティン・マクヴィー夫妻は離婚し、リンジーとスティーヴィーも破局を迎えていましたが、精神的な辛さをレコーディングに全てぶつけて乗り越えています。
ファンタスティック・マック(リマスター&ボーナス・トラック・エディション) | |
クリエーター情報なし | |
ワーナーミュージック・ジャパン |
噂(リマスター&ボーナス・ディスク・エディション) | |
クリエーター情報なし | |
ワーナーミュージック・ジャパン |
Fleetwood Mac - Go Your Own Way (HQ)
私自身は世代的にこれよりちょっとあとの、『ミラージュ』や『タンゴ・イン・ザ・ナイト』がリアルタイムなのですが、Go Your Own Way は家でもよくかかってたのを覚えています。
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Майя Плисецкая・・・・Мы потеряли незаменимого....
尊敬するバレリーナのプリセツカヤ急逝のニュース、とても哀しいです。
かけがえのない方でした。
映像で何度も観た彼女の『瀕死の白鳥』を、生で初めて観ることができた時、彼女は既に高齢で普通のバレリーナならとっくに引退している年齢でしたが、あまりの素晴らしさに驚愕したのを今も覚えています。
何度も日本に来てくれて、どんなちっぽけな公民館みたいな舞台でも最高のパフォーマンスをしてくれた方でした。
瀕死の白鳥について、録音された音源で踊る時や、ピアノ伴奏の時、チェロの時、他の楽器の時との踊り方の違いとかの話も印象に残っています。
シチェドリンが亡くなった時に2人一緒に空から散骨してほしいという遺言が発表されました。。。
Maya Plisetskaya in Don Quixote ca 1959
Alexander Godunov, Maya Plisetskaya, Carmen-suite, 1974
Ravel Bolero Maya Plisetskaya
プリセツカヤ・シチェドリン財団の公式サイトの映像コーナー
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