世の無常を感じるときもいろいろあるでしょうが、知り合いの早すぎる死に接するときその感慨はひとしおのものがあります。
生者必滅は世の習い、順番などあろう筈もなく、今日とも知らず明日とも知らずただいい加減な欲望と希望的観測だけで、多分自分の番は暫く後だろうなどとたかをくくっているのです。
配偶者の父といい、今回の知人といい、種類は違うもののいずれも癌の末期で身体の重要な部分まで犯すほど転移した後でした。
喪主である奥様の葬儀でのお礼の言葉に、不覚にも落涙してしまいました。
ご主人がなくなって、直ぐに電話を頂き仮通夜・通夜・葬儀と3日間近くでご一緒させて頂きその気丈な態度には敬服しておりました。
多分今日からは親類の方々も一組・二組とお帰りになり、いずれ一人になったとき本当の自分の顔に戻られるのだと思います。
朝日を浴びた命が夕日を確実に浴びる保障はないにも関わらす、私達はあまりに己を顧みることをしません。
死を意識することが、結局今の生を意識的に生きることになるのでしょう。
なんだか次々と亡くなっていく知り合いの死に、生き方を教えられているようです。
願わくば自由な千の風に乗って残された愚かな私達を諭して欲しいものです。
「死んでまた別の名前の花になる」。
と、詠ませて頂き心から哀悼の意を表しご冥福をお祈りしたいと思います。