目からウロコという話はよく聞くが、そういうことは確かにある。
自分でも気軽に「雑草のように逞しく」とか「雑草取りに苦労する」とか言っているが、そもそも雑草とは何ぞやと考えることは少なかった。
考えたとしても、取っても除いても生えてくる、逞しくも厄介なものという以上の考え方には至らなかった。
特に家庭菜園や庭の芝生の手入れは、それを除去するところから始まる。
体も痛くなるような苦労の多い作業になっていたからだ。
(種々さまざまな雑草?たちは元気に冬を越す)
(冬枯れの芝生に雑草?が一足早く春を告げる)
ところが、さるTVの園芸番組で指導する何処かの先生が「草は人の生活の中で生きるとき雑草となる。同じ草でも山野では雑草とは言わない」とおっしゃった。
「雑草にも名前がある、一括りで呼ぶな」等という話はよく聞くが、それを超えた次元の話であるようにうけたまわった。
どんなに有名な名であろうと可憐な花が咲こうと、畑や庭など人間が土を耕し創り上げている空間に入り込めば雑草と呼ばれ排除される。
非情にも生存のために他の生物の命を奪う、それを否定することは生きることを否定することに繋がるというのが人間界の常識。
食物連鎖の頂点に君臨しながら、哲学や宗教は人が生きるための合理性を模索する過程で生まれ、豊かさを求める過程で都合良く解釈され続けてきた。
しかし寛容であった自然もクレームをつけ始め、秩序の再構築を考え始めたようだ。
だが、そもそも畑の雑草の意味すら知らなかった私達ユートピアの住人は、「湯から上がれば風邪引くぞ」という声の方に耳を傾ける。
自然界において、私を含め人間とはさても厄介な生き物だと自覚する。
せめてここで一句「言い訳がオウンゴールになる予感」
いやはや逃げ場はありませんな。