朝方かなり強い雨の音で目が覚めた。
どうやら予報通り今日は雨かと起き出したら、雨は上がって曇り空になった。
雲の切れ間から薄日がさす状態なので、降らない合間を縫って歩きに出た。
薄日は差していたが、折り畳み傘は携行した。
(船野山)
里山の一つ船野山はお皿を伏せたような山で、上部はなだらかだが脚部は意外と急になっている。
特に南北の両端はかなり急峻。
この山の左半分のくらいの集落を歩く予定だった。
先日の震災遺構の「谷川断層」の続きを回るつもりで、麓の集落の広場で車を駐めた。
歩き始めてまもなく、道路に隣接する山の崩落箇所に出くわした。
(道路を遮断した崩落現場)
先般の豪雨で崩落したものらしい。
里山の急峻な方から、かなりの土砂が崩落していて、完全に道路を遮断していた。
塀にも赤い土の後が残っているところをみると、この辺り一帯土砂に埋もれていたようだ。
塀はお寺のものなので、山門の方に回ってみた。
(お寺の山門)
結構大きなお寺で、本堂も堂々としていたのに妙な具合になっているの山門への階段を昇ってみる。
(倒壊した本堂)
なんと!完全に本堂は倒壊していた。
あの豪雨のあと、被害を伝えるニュース映像で出てきたのはこのお寺だったのだ。
当町にはお寺が多く、古い時代に廃寺になって跡だけが残るお寺も数カ所有る。
特にこの里山周辺にはかなりのお寺があるが、まさかここのお寺だとは気がつかなかった。
谷川を濁流が倒木とともに流れ下る映像から、この里山の東端辺りの谷川沿いの寺と思っていた。
山が崩落し、寺の本堂を倒壊させるなどということは集落の誰も想像していなかったと思う。
改めて、付近の景色を眺め直してみた。
(なだらかな里山と集落の直ぐ後の山)
写真からも判るように、山は左右にはなだらかだが、手前の方向には急峻である。
更に、集落の直ぐ後にせまる低い竹山は、後方の里山から滑り落ちたような形状をしている。
この山麓沿いには、今回の地震で地表面に断層が現れた「布田川活断層帯」が走っている。
この集落の少し西方で、断層は直進と左折の2方向に別れる。
直進は宇土半島から有明海に延びる布田川断層。
左折の方向は九州山系の麓を連ね八代(日奈久)から不知火海を経て天草に至る日奈久断層帯。
多分地滑り・山崩れなどは豪雨によってもたらされたものだろうが、地形上断層帯とは無関係ではないだろう。
しかし、人々の暮らしは目の前の平地を耕し、後方の山沿いに家を建ててきた歴史がある。
この里山沿いの長い長い集落の列と、断層帯の方向は奇妙に一致している。
今日の新聞には、ハザードマップ上水没が予想される地域に、日本では60万人以上が移住して来ているとあった。
地形的に問題のある地域への、行政の誤誘導ともいえるとのこと。
震災後、町の北側丘陵地帯での仮設住宅を含む建設現場は全て発掘調査が行われ、多数の遺構が発見された。
しかし、町の中心部の再開発地域からは遺跡はまったく発見されていないという。
石器時代・縄文弥生時代の先人の、安全な住居を求めた記憶を無駄にしてはならない。
百年、千年に一度の災害が毎年どこかで起きているのだから・・。
「金と人出来ぬ理由を押しつける」・・・しろ猫
つい、真面目にぼやいてしまった。