カンチャン狂騒曲

日々の事をあれこれと、大山鳴動してネズミ1匹がコンセプト。趣味さまざまなどを際限なく・・。

里山の遠景・近景

2023-08-23 14:09:47 | 人声人語

 朝方かなり強い雨の音で目が覚めた。

 どうやら予報通り今日は雨かと起き出したら、雨は上がって曇り空になった。

 雲の切れ間から薄日がさす状態なので、降らない合間を縫って歩きに出た。

 薄日は差していたが、折り畳み傘は携行した。

 

 (船野山)

 里山の一つ船野山はお皿を伏せたような山で、上部はなだらかだが脚部は意外と急になっている。

 特に南北の両端はかなり急峻。

 

 この山の左半分のくらいの集落を歩く予定だった。

 先日の震災遺構の「谷川断層」の続きを回るつもりで、麓の集落の広場で車を駐めた。

 歩き始めてまもなく、道路に隣接する山の崩落箇所に出くわした。

 

 (道路を遮断した崩落現場)

 先般の豪雨で崩落したものらしい。

 里山の急峻な方から、かなりの土砂が崩落していて、完全に道路を遮断していた。

 塀にも赤い土の後が残っているところをみると、この辺り一帯土砂に埋もれていたようだ。

 塀はお寺のものなので、山門の方に回ってみた。

 

 (お寺の山門)

 結構大きなお寺で、本堂も堂々としていたのに妙な具合になっているの山門への階段を昇ってみる。

 

 (倒壊した本堂)

 なんと!完全に本堂は倒壊していた。

 あの豪雨のあと、被害を伝えるニュース映像で出てきたのはこのお寺だったのだ。

 当町にはお寺が多く、古い時代に廃寺になって跡だけが残るお寺も数カ所有る。

 特にこの里山周辺にはかなりのお寺があるが、まさかここのお寺だとは気がつかなかった。

 谷川を濁流が倒木とともに流れ下る映像から、この里山の東端辺りの谷川沿いの寺と思っていた。

 山が崩落し、寺の本堂を倒壊させるなどということは集落の誰も想像していなかったと思う。

 改めて、付近の景色を眺め直してみた。

 

 (なだらかな里山と集落の直ぐ後の山)

 写真からも判るように、山は左右にはなだらかだが、手前の方向には急峻である。

 更に、集落の直ぐ後にせまる低い竹山は、後方の里山から滑り落ちたような形状をしている。

 この山麓沿いには、今回の地震で地表面に断層が現れた「布田川活断層帯」が走っている。

 この集落の少し西方で、断層は直進と左折の2方向に別れる。

 直進は宇土半島から有明海に延びる布田川断層。

 左折の方向は九州山系の麓を連ね八代(日奈久)から不知火海を経て天草に至る日奈久断層帯。

 多分地滑り・山崩れなどは豪雨によってもたらされたものだろうが、地形上断層帯とは無関係ではないだろう。

 しかし、人々の暮らしは目の前の平地を耕し、後方の山沿いに家を建ててきた歴史がある。

 この里山沿いの長い長い集落の列と、断層帯の方向は奇妙に一致している。

 今日の新聞には、ハザードマップ上水没が予想される地域に、日本では60万人以上が移住して来ているとあった。

 地形的に問題のある地域への、行政の誤誘導ともいえるとのこと。

 震災後、町の北側丘陵地帯での仮設住宅を含む建設現場は全て発掘調査が行われ、多数の遺構が発見された。    

 しかし、町の中心部の再開発地域からは遺跡はまったく発見されていないという。

 石器時代・縄文弥生時代の先人の、安全な住居を求めた記憶を無駄にしてはならない。

 百年、千年に一度の災害が毎年どこかで起きているのだから・・。

 「金と人出来ぬ理由を押しつける」・・・しろ猫

 つい、真面目にぼやいてしまった。

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「ひまわり」を眺めると・・。

2023-07-13 16:16:47 | 人声人語

 日々刻々と天候が変化する毎日である。

 今日は気温の上昇が約束された日である。

 所用で出かけた道すがら、道路の脇でヒマワリ畑がチラッと見えた。

 帰り道は、遠回りになったが道路脇に車を駐めてヒマワリ畑を眺めた。

 

 (道路脇のヒマワリ畑)

 ヒマワリの栽培もいろいろな目的があるのだろう。

 大リーグの選手やコーチなどが、ヒマワリの種の殻をプッと口から吹き出すのをよく目にする。

 

 鑑賞が目的なら、それなりの準備がなされている筈で、ここは接近するのさえ足元が覚束ない場所だった。

 ヒマワリと言えば、ウクライナの国花だそうでソビエト連邦華やかりし頃、イタリア映画の「ひまわり」が撮影された場所らしい。

 マルチェロ・マストロヤンニ分するイタリア兵が東部戦線に送られ捕虜となり、現地の若い女性との間に子供も出来て、それなりに生活しているところへ、イタリアに残されていた妻ソフィアローレンが訪ねていくというストーリー。

 当時のソ連で撮影されたイタリア映画ということで1967頃の公開時はそれなりに騒がれた映画である。

 マストロヤンニもソフィアローレンも独特の個性派俳優で私は好きだったが、この「ひまわり」に関しては、ありふれた恋愛物語のようで個人的には面白くなかった。

 当時、この映画を見に行った理由は、現地妻役の女優に興味があったからである。

 トルストイの原作「戦争と平和」は、当時のソ連が国家をあげて作り上げたもので、ナターシャ役の若い女優が当時若かった私はとても好きだった。

 この作品は、第1部の公開から完結編まで5年くらいが経過しており、ナターシャ役の女性も作品の中のナターシャと同じく年をとっていくという構想に、当時のソ連の意気込みを感じた。

 成長した完結編のナターシャを見るため、映画館に足を運んだものだった。

 そのナターシャ役(リュドミラ・サベリーエワ)が出演しているというので伊映画「ひまわり」を見に行ったのだ。

 当時は撮影地は、ウクライナとだけソ連も発表していた。

 ・・・・・

 平和な日本のヒマワリ畑を見ながら、東部戦線の戦後を描いた映画のヒマワリ、そして今まさに侵攻されているウクライナの国土に咲くヒマワリへと思いを巡らす。

 花も、咲く場所によって、咲く時代によってこうも違うのかと。

 ソビエト抑留という言葉は、遠い国の話ではないのだ。

 夏のヒマワリと、厳冬のシベリアと・・。

 「戦とは父が帰って来ないこと」・・・しろ猫

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豊かな水の恵み

2022-09-30 10:46:28 | 人声人語

 出掛ける際に江津湖の近くを通りかかると、つとめて立ち寄ることにしている。

 季節の移ろいもそうだが、鳥や魚それに人々の自然との触う姿も刻々と移り行く。

 豊かな自然は水によってもたらされている。

 

 (上江津湖)

 江津湖は細いくびれの部分で繋がったヒョウタンのような形をしている。

 くびれの部分は細く、川のような様相を呈していて付近に架けられた橋からの眺めは川にしか見えない。

 相当な流量で、小さな手漕ぎのボートなどで上流のボート屋の桟橋にたどり着くには難儀する。

 若い頃、上江津湖でボートを借りて、下江津湖まで足を伸ばしてしまい、時間に間に合わなくて超過料金を取られた思い出がある。

 それ程の水量なのだが、水源は水前寺公園の湧水をはじめ付近一帯の家庭の庭にも及ぶ。

 

 (民家の庭から流れ出る湧水)

 

 民家の塀の下部には、水の排出口が無数に開けられている。

 昔の民家は石垣の塀も多いので、全体から自然に漏れてくるものもある。

 江津湖自体も底から水が湧き出ているが、昔の綺麗な砂地の頃のように湖面からは見えなくなってしまった。

 淡水のノリ(スイゼンジのり)も立ち入りが制限された地域で試験栽培されているくらいだ。

 清涼な水にしか棲息しないヒラモも復活に向けて、試験栽培されている。

 そのヒラモが、我が町の藻川と呼ばれる小さな川には当たり前に棲息している。

 

 (ヒラモの自生する川)

 我が町の南部の里山の麓は、伏流水が豊かに湧き出している。

 

 (バイカモなど)

 こうした、開発とは無縁のような土地に自然は豊かに残されていく。

 一方、江津湖は郊外へと広がって行く都市に囲まれはじめ、気がつけば泥が綺麗な砂を覆い始める。

 意識的な市民の協力がなければ、豊かな自然は後世に残せない。

 熊本には巨大な半導体工場が誘致され、関連するメーカーの進出も予想されている。

 こうした半導体の製造には大量かつ綺麗な水が求められる。

 豊富な水や労働力などが進出の決め手だろうが、水の自然循環には今まで以上の注意が必要だろう。

 水量の確保はもとより、水質の保全・維持を誤ると上水道の100%を賄う市民生活に重大な影響を及ぼす。

 工場進出のメリットに沸く中で、デメリットが過小評価されることがないようにしなければならない。

 「しっかりとやると政治のマニュアル語」・・・しろ猫

 今日はまた、真面目に締めてみた。

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無口なコイン精米機

2021-12-21 15:43:44 | 人声人語

 近くにあったコイン精米機が、再開発工事関連で撤去されてしまった。

 前回は少し遠い場所まで出かけたが、ウオーキングの最中に比較的近場で探し出した。

 正月を前に、本年最後の精米に向かった。

 

 メーカーも同じで、見た感じも今までの精米機と違わないので、安心して米を投入した。

 ただ「あれ?」と違和感があった。

 それは、まったく喋らない無口な精米機だったこと。

 今まで使っていた精米機は、ドアを開けた途端に次々と音声案内されていた。

 これは、黙々と作業を続けるばかり・・。

 今までの精米機は、進行状況が%表示され「終わりました。お忘れ物のないように」まで喋っていた。

 これは、黙々と作業しいきなりバタンと終わるので、本当に終わったのか疑問も。

 今までの精米機は、終わっても最後に残りのお米が出てくるので暫く待てという案内もあった。

 つい癖がついてしまって、ここでも暫く待ったが何も出てこなかった。

 私は、音声案内や状況の進捗表示などの生活に慣れてしまって、それが無いと不安になるという事実を確認した。

 レジの自動支払いなど、音声案内が最初はうるさい程だがやがて慣れてくる。

 どうやら、小はレジやコイン精米機から、大は政府の説明責任まで納得・ご案内症候群を発症したみたいだ。

 「10年も前のニュースが古くない」・・・しろ猫

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目には青葉、憲法記念日は五月晴れ

2021-05-03 15:06:27 | 人声人語

 朝方は10度を割るような気温で薄ら寒かった。

 しかし日中は、五月晴れのサンプルのような空模様になった。

 朝から、新聞雑誌などの資源ゴミ出しと、コイン精米機での精米を頼まれた。

 お米を投入して、出来上がるまで道の向こうの神社の木々を見上げる。

 

 抜けるような青空で、五月晴れのサンプルにしたいような天気。

 木々の緑を見ると、「目には青葉山ホトトギス初鰹」の句が直ぐ思い浮かぶ。

 山ホトトギスは子供の頃は、よく聞いていた。

 「テッペンカケタカ」と鳴いているのだと、そのうち本で読んで知ったが・・。

 初鰹は、粋がった江戸っ子には必要不可欠な食材だったと古川柳。

 ホトトギスの声も、初鰹もこの頃はとんとご無沙汰。

 その分、目には青葉なら自宅の庭にも溢れている。

 

 タケノコだった鉢植えの黒竹が、4~5本スクスク伸びて葉っぱを広げ始めた。

 幹が黒くなった古い方の竹も、新葉が少し見え始めた。

 七夕の頃は、笹の葉がサラサラになる予定。

 

 青葉のモミジも、一年で一番清々しく美しい季節。

 葉っぱを愛でる植物はいろいろあるだろうが、今頃の青葉のモミジが好きである。

 横のサツキも、鉢植えの頂き物の一株を地植えにしたらドンドン大きくなった。

 

 緑に日の丸はちょっと良い感じ・・。

 今年は、どういうわけか、一輪も花が咲かなかった。

 庭のツツジも1~2本が満開になった程度で、殆どの株が咲かなかった。

 

 徹底的に、目には青葉だけで楽しんでくれと言わんばかり。

 こんな咲かない年は、地震で瓦礫に埋もれてしまった時以来。

 瓦礫も除去したら、次の年からはきっちり咲いてくれたのだが。

 今日は憲法記念日で、大型連休も中盤の佳境といったところ。

 外での行動も思うようにいかないので、憲法でも勉強してみるか・・・とは、なかなか。

 

 日本の憲法だけではなんだから、世界の主要な国の憲法も読んでみるかと文庫本を買ったが、頓挫中。

 アメリカ、カナダ、ドイツ、フランス、スイス、韓国、ロシア、中国そしてトリは日本。

 アメリカとカナダの27条あたりまでは、赤線が引かれているので読んだことがあるのだろうが、覚えていない。

 パラパラと拾い読みしたところでは、印象に残っているのはスイス連邦憲法(1999年4月18日制定)の前文。

 一篇の詩を読むような流れで、すんなり読めるが特に最後あたりが心に残る。

 「・・・・自由を行使する者のみが自由であるということ及び国民の強さは弱者の幸福によって測られるということを確信し、次のとおり、憲法を制定する」と前文に記されている。

 日本国憲法も、なかなかの名文(迷文)だが、スイスも決めるところはきっちり決めている。

 時代にマッチさせるための試みがなされている。

 憲法を弄ぶなどもっての他だが、古典にしない努力は必要だろう。

 「憲法は基準値なのか目標か」・・・・しろ猫

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終戦記念日は結婚記念日

2020-08-15 11:39:04 | 人声人語
 今日は8月15日、75回目の終戦記念日である。

 日本にっとては、忘れてはならない重要な日である。

 実は本日は、私たちの結婚記念日でもある。

 忘れようにも忘れられない印象的な日を、法的な婚姻の日とした。

 形式的な結婚式は4か月ほど後のことである。

 戦争を語り継ぐ世代が段々と少なくなっている。

 我々は当然実相を知る由もないし、聞く相手も存在しない。

 辛うじて、本はその一端を語ってくれる。

 
 (「戦争調査会」井上寿一(著)2017.11講談社(刊))

 幻の政府文書を読み解く・・・と副題にあるように、幻で終わった未完の国家プロジェクト。

 1945年11月幣原内閣が立ち上げた「戦争調査会」は、日本人による先の大戦の検証作業であったが、1年弱で廃止。

 進行中の東京裁判(極東軍事裁判)に影響を及ぼすとのGHQ判断で、未完の国家プロジェクトとなる。

 しかし、この時の日本人自身による開戦から敗戦に至る検証が、もし完全になされ、資料も有効に活用されていれば、今とは違った日本になっていた可能性はある。

 
 (「その日の予定」エリック・ヴュイヤール(著)塚原史(訳)2020・6岩波書店(刊))

 「いちばん大きなカタストロフ(大変災・大団円・悲劇的結末・破局)は、しばしば小さな足音で近づてくる」

 実在の人物ばかりが登場する、事実にもとづく小説とある。

 24人の政界・財界・産業界などの要人が、1933年2月ベルリンの郊外で会合する。

 にこやかに会合の席に現れたヒトラーは、強い体制を作り難局を乗り切るため次の選挙に勝たねばならないと述べる。

 多額の資金協力を得る話から小説は始まる。

 英仏が看過した、オーストリアの併合は、以降のナチスの際限のない拡大へと繋がっていく。

 そして、敗戦となっていくのが歴史の事実だが、物語の最初に登場し多額の資金協力をした企業は戦後も生き残り、今も現存する。

 戦争には、戦争を企画・立案し遂行・指導するグループと、愛国心や狭いナショナリズムや同調圧力に絡めとられたグループが存在する。

 さて、あったことを、無かったことには出来ないので、毎年この日だけ掲載する一枚の写真。

 
 
 焼き場に立つ少年と命名され、アメリカの従軍カメラマンが長崎で撮影したという沢山の写真の中の一枚である。

 ドイツの開戦前夜の状況と、日本の調査会の資料、そして一枚の写真。

 私たちの年代が、次の世代に伝え得る内容はある程度包含していると思う。

 

 この夕焼けは、地震の数日後すこし心が落ち着いた頃に写したものである。

 鮮やかな夕焼けの明日は、明るい朝の太陽が降り注ぐと平時には思ってしまう。

 しかし、逃げおおせた地震のあとの夕焼けは、むしろ不気味な明日を暗示しているような色に見えた。

 同じ夕焼けを、何処かで見ていた人には平和な夕焼けであったかも知れない。

 小さな足音は、温暖化・法令の解釈・差別化などという面倒な形で顕在化しつつある。

 個々人として強くあらねばと、つとに思う。

 「戦とは父が帰って来ないこと」・・・・しろ猫

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合図は吾の為ならず

2019-06-18 16:13:56 | 人声人語
 先日深夜に出かける事態となって、一杯引っかけていた私は運転出来ず、相方が運転をすることになった。

 一応用件が済んでの帰り道、深夜のほとんど車が走らない4車線道路の交差点で信号停車した。

 交差する道路は左右ともに1台の車も無く、対向する前方には1台だけ乗用車が止まっていた。

 信号が青に変わって、相方が車を直進でスタートさせると同時に、対向車も発進した。

 ウインカーを上げずに停車していたので、てっきり直進と思っていたのだが、そのままウインカーを上げず右折を始め、目の前を通過して行った。

 昼間だったら運転手の様子くらいは見えるだろうが、お互いに深夜でしかもライトを点けているので様子はわからない。

 出足のよい車なので、我が家の直進車より早く交差点を右折出来ると思ったのだろうが、せめてウインカーくらいは点けて欲しいと相方ともどもブツブツ。

 この頃というか、ここ数年くらい前から合図しない、或いは合図が不十分な車が特に目立つようになった気がする。

 
 

 前方と後方それに側方からも見える位置にウインカーライトは取り付けられている。

 何のためかと言えば、勿論付近の車や歩行者に対して自分の意思を伝えるためである。

 信号が変わるまで合図を上げない、右左折の動作を始めながら合図を上げるなどの、おざなりな合図が目立ち、合図が相手のためにあるという認識が希薄な感じがする。

 車で外部に対して意思を伝達する手段は、ウインカー・クラクション・ライトの点滅などである。

 この他にも、手や目による合図のようなものもあるが、最近の車は構造やウインドウの色などで運転手同士のコンタクトは取り辛い。

 この頃思うに、リアルな対人関係の希薄さも原因の一つではないかという気がする。

 隣人の名前も知らない人間関係の中で、直接利害関係もない不特定多数の人達は、所詮はネットでつながっている者同士以上に関係ない人達なのだ。

 使わなくて済むなら使いたくないウインカー操作は、ほぼ事故でも起きない限り違反しても、取り締まり以外に咎め立てされることもない。

 そう言えば「運転が示すあなたのお人柄」の標語も最近目にしないが健在なのだろうか。

 せめて、「なんのことか・・・わかんな~い」という時代が来ないことを祈りたい。

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AIと人間の関係

2018-06-29 10:02:08 | 人声人語
 AI(人工知能)という言葉を頻繁に耳にするようになった。

 もっぱら自動運転や、労働力不足を補うための産業・経済活動分野への活用という視点で語られることが多い。

 日本のロボット技術は優れているということで、二足歩行のロボットや犬型の愛玩用ロボットなどがもて囃された。

 

 しかし、わたくし的には福島の原発事故の対応において、人が立ち入ることも出来ないような場所への調査に使えるようなロボットは日本に存在せず、結局アメリカから取り寄せた環視・調査ロボットに頼ることになった無力感が今もある。

 一年前にAIに関する本のことをブログに書いているが、その後時代は飛躍的に進んでいるようだ。
AIと人間の未来
 AI(人工知能)という言葉が最近盛んに聞かれるようになった。 将棋や碁でプロ棋士を負かしたとか、車の自動運転とかで俄に現実味をおびた話になってきたようだ。  「人工知能......

 ただ、人間を超えるAIは出来るかということで、機械学習の専門家と人工知能の専門家の間で限界説が別れているようだ。

 

 私は、猫型や犬型ロボットなどで癒されると喜ぶ人達を見ていると、少し空しいような気持ちにさせられる。

 本物の猫や犬は、沢山の難題を突きつけてくるし、病気もするし必ず死に直面する。

 

 それに、AIは人間の知識や身体の神秘を超えることは出来ないかもしれないが、人間を誤った方向に導く手段としてなら使えることを、愛玩ロボットや受付ロボットが立証しているような気がするのだ。

 兵器として戦場に登場するばかりでなく、平時から静かな目に見えないむしろ好ましい対象としての仮面を被り、私達が日常何気なく(食事時でも)見続けてしまうテレビのCMのように、価値判断を経済にのみ求めてしまう生き方を無意識にしてしまっていることにすら、気づかないように・・。

 私達はもっと意識的であるべきなのかも知れない。

 
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オソンタクって悪い事?

2018-06-06 09:22:20 | 人声人語
 国会もマスメディアも「もり・かけ」の蕎麦屋問答に明け暮れている。

 一年前に「伝えたいことと伝わることの違い」をブログにUPしている。

 言いたい事の真意が伝わっていない、あるいは大袈裟な伝えようがかえって相手の心に響かない。

 という主旨のことを書いている。
伝えたいこと伝わること
 「伝えたいこと」と「伝わること」は擦れ違うことが多い。 昨今政治家の失言(つい本音?)が多いが、問題視された後でのコメントは例外なく「発言の主旨が伝わっていない」。 文脈......

 昨今の状況も、伝えることの大切さを痛感させられる。

 言っていない、指示もしていない事が「忖度」されて実行に移された話である。

 メディアも「忖度」なる言葉をキーワードに、さも「忖度」が悪ででもあるかのような報道ぶりだった。

 この忖度が行われたかどうかを立証せよという話には?が???くらい点灯する。

 状況に鑑みとか心の痛みをおもんぱかって・・・等と云う心根話は日本のオモテナシと良い勝負なのだ。

 「オモテナシ」も贈収賄となれば、悪となるが「オモテナシ」自体が悪いわけではないのと同じこと。

 「伝えたい真意が伝わらない」話と、今回の「話してもいないことが伝わった」話は真逆だが残念なところは共通している。

 ただ、埋もれて死語になりかけていた「忖度」が見事に復活したのは、豊かな日本語いう観点からは喜ばしい。

 さて死語といえば、「朝顔に釣瓶取られて貰い水」・・加賀千代女の「釣瓶」が死語になって久しい。

 
 
 井戸の保存も大変だが、釣瓶の保存となると更に困難を極める。

 秋の陽は釣瓶落としなどといっても通じない人が多いだろう。

 「朝顔が取った釣瓶も今は無く」というのが、3~4年前に私が詠んだ川柳の一句。

 評価はサッパリだった・・・。

 今日の話のオチが悪いのは、きっと釣瓶のせいに違いない。

 
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子供の日に鯉のぼり

2018-05-05 14:53:49 | 人声人語
 今日は子供の日、昔は端午の節句で「チマキ・柏餅・菖蒲・鯉幟」が定番だった。

 ある程度大きくなってからも、祖母は必ずチマキと柏餅は作っていた。

 考えてみたら自分の子供にチマキや柏餅をわざわざ作ったことがないことに気がついた。

 菖蒲や鯉幟はなんとかした覚えがあるが・・・。

 昨日の句会の席題は「こいのぼり」だったが、「近頃は屋根より低いこいのぼり」という句を出した人がいた。

 確かに団地サイズが精一杯の生活様式に変わってきた。

 長女の子供に鯉幟を送ったが、やはり団地サイズで屋根より高くは泳いでいない。

 私の散歩コースでただ一軒だけ屋根より高く泳いでいる鯉のぼりがある。

 

 「♪甍の波と雲の波・・・♪」などと唱うと「いらか」とは何かという話になりそうだ。

 立派で大きなシャチホコが乗った瓦屋根ほど今度の地震では被害が大きかった。

 再建されている家々の大部分は、コロニアルだのスレートだのに変更されている。

 たまに瓦があるが、殆ど低くガッチリ組み合わさった鬼瓦やシャチホコなどない防災仕様のものばかりである。

 散歩中は暑かったが、帰り着く頃にはいい風が吹いて隣のエステの幟も風にはためいていた。

 

 今日は国民の祝日「子供の日」である。

 せめて、国旗でもはためかせてみようと思った。

 

 子供の日は何の文句もなく、国民の祝日として抵抗は無いし国旗を立てるにやぶさかではない。

 なかには意味不明というか意義不明というか、労働者を休ませようという意味合いではなく、休日をやって消費機会を増やしてGDPや消費者物価指数の向上に寄与させよう等という魂胆まる見えの休日もある。

 ま、それもこれも国民の健康と福祉を思えばこそ・・・なんでしょう。

 で、年寄りは混雑した場所は迷惑をかけるし、疲れるしで家でゆっくりして、ゴールデンウイークが終わって静かになったらどこか近間で、金を使わないで済む所にでも出かけることにする。

 「痩せたねと言われて寂し鯉のぼり」

 
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