ざっくばらん(パニックびとのつぶやき)

詩・将棋・病気・芸能・スポーツ・社会・短編小説などいろいろ気まぐれに。2009年「僕とパニック障害の20年戦争出版」

若い罪(60)

2020-11-15 16:51:27 | 小説
でもそれが原因で、家族を苦しめたのは自覚しています。夫も含めて」
「そうですか。ただ、それは自分で調節したり出来るもんじゃないですよね」
うっすらと笑った恵理を佐世子がカウンター越しに神妙な顔で見つめる。
恵理が背筋を伸ばしながら佐世子に正対し、目を合わせた。平手で叩かれるくらいは覚悟した。しかし彼女の予測は外れた。
「息子が、正志が大変ご迷惑をおかけしました。林田さんは殺人未遂の被害者です」
佐世子は深々と頭を下げた。
「吉川さん、頭を上げてください。謝らなければならないのはこっちですから」
恵理が慌てた様子で促したのが聞こえたのか、佐世子はゆっくりと頭を上げた。
「私がこの事件の原因を作りました。なぜ川奈さんが月に2、3回程度訪れるだけの居酒屋の中年女を頼ったかは良くわからないのですが、今にしてみればきっぱり断るべきでした。そうすれば、どこかのマンションなりアパートを借りていたはずですから」
恵理の淡々とした口調の中に後悔が滲んだ。

「何故なんでしょう。アパートを借りたことには何の疑いも持ちませんでした。それも個人的に親しいとも言えない女性の家に」
佐世子の顔には困惑と未練が入り混じっていた。
「正直、これまでに何度か同じようなことがありました。独身も結婚している人もいましたけど、大抵はもっと親しい間柄でしたね。片想いや両想いだったことが多いです。ただ川奈さんの場合、たまにくるお客さんという印象で、川奈さんも私を好きだったかといえば、そうでないような気がします。こればかりは川奈さんがいないので確認しようがないですが」
恵理の言葉にはそれなりの説得力があった。常連客とも言えないような中年男が彼女を頼って転がり込んできたのだから、相当な違和感があっただろう。
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若い罪(59)

2020-11-15 16:16:45 | 小説
4月に入り、桜も見頃を過ぎた。彩乃はすでに大学へ通い始めている。佐世子も工場の仕事を週4日から5日に増やしてもらった。麻美は電話やメールでのやり取りでは、まだ塾講師をしていて、教員への復帰の目途は立っていないようだ。若い麻美や彩乃は、今後どれだけ家族について聞かれるのだろう。特に就職や結婚という彼女たちにとって人生を左右するような大きな転機になればなるほど、相手側は家族について知りたがる。佐世子はそれを思うと正志を育てた責任の重さが骨身に沁みてくる。

佐世子はどうしても会わずにはいられない人物に連絡した。向こうも同じ気持ちだったというので、4月8日、午後2時前、指定の場所にいる。小さな店の前だ。チャイムを押す佐世子の右手が少し震えた。
「少々、お待ちください」
ドアが開き、林田恵理が目の前に姿を現した。
「どうぞお入りください」
比較的、明るい声だった。
「失礼します」
佐世子は硬さのとれぬ声で恵理の店に足を踏み入れた。

彼女は春物の白いセーターに黒のロングスカートという出で立ちだった。髪はショートカットと言っていいだろう。化粧も厚くはないが隙は無かった。実際には小柄なはずなのだが、決して小さくは見えない。この商売で長年生きてきた独特の強さのようなものが感じられた。
「あれ、娘さんですか?」
「いえ、私が川奈の妻です」
数え切れないほど繰り返してきたやり取りだった。しかし、このルーティーンのような会話で不思議と佐世子の緊張は解けた。二人は初対面ではない。しかし、まともに目を合わせた事もなかった。
「川奈さんから妻は凄く若く見えると何度も聞いていたけど、まさかここまでとは」
恵理は驚きを隠さなかった。
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若い罪(58)

2020-11-15 16:07:01 | 小説

「どうぞ」
佐世子が町田に声をかけた。その後ろに文庫本2冊の入った袋を抱えた彩乃がいる。
「じゃあ少しだけお邪魔します」
入ってすぐにキッチンがあり、向かい側にバス・トイレ。正面には6畳間があり、襖で仕切られた奥の部屋も和室の6畳間だ。クローゼットや押し入れもある。

「いい場所見つけましたね。奥の部屋は西日が強そうだけど、2Kですか」
町田は家の中を見回しながら口にした。
「ええ、2Kですね。手前が私の部屋と食堂をかねて、奥の部屋は彩乃が使う予定です」
「彩乃ちゃんにとっては丁度いいアパートだと思いますよ」
「丁度いいんですか?」
やや小柄の彩乃が上目づかいに長身の町田を見つめる。
「うん、あんまり広くて綺麗な家に住むと、少なくとも家に関しては欲がなくなってしまうの。でもこれくらいのアパートだと住むのには支障がないけれど、『もっと広い家に住みたい。綺麗な家に住みたい』って思うようになる。少しおなかを減らしといたほうがいいんだよ。彩乃ちゃんのような若い子は」
町田は彩乃の未来を想像しているような顔をしていた。

「そんなもんですかねえ」
彩乃は半信半疑の様子だ。
「そのうち分かるよ。じゃあ彩乃ちゃん、本の感想を楽しみにしてるから。佐世子さん、また連絡ください」
すでに玄関で素早く靴を履き「お元気で」と言い残して玄関のドアを閉めた。佐世子と彩乃もあっけにとられながら後を追ったが、車はすでに走り出していた。佐世子と彩乃は車の後方から深く頭を下げた。
「女神のような人だね。私たちにとって」
佐世子の言葉に彩乃は「うん」と頷いた。

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若い罪(57)

2020-11-15 09:58:14 | 小説
これ貸してもらえませんか?」
彩乃が町田の様子を伺う。
「へえ、こういうのが好みなんだ。センスいいね。2冊ともなかなか面白いよ。いちいち返しに来なくてもいいからね。それあげるから」
「いえ、返します。また朋子先生に会えるから」
「嬉しいこと言ってくれるね。では必ず返しに来なさい」
町田は笑って彩乃の頭を少し乱暴に撫でた。
「下でお母さんが待ってるよ。早く行かなきゃ」
「はい」

「それにしても彩乃が小説を借りるなんてね。受験勉強で活字好きになったのかな」
佐世子は関心しながらも、意外そうな口ぶりだった。以前の彩乃にとっての本と言えばコミックと決まっていた。
「私だって成長するの。でも、やっぱり受験勉強が大きかったかな。活字慣れしたというか」
助手席の彩乃は少し誇らしげだった。
「私だったら1日で彩乃ちゃんの持ってきた2冊読んじゃうけどな。時間があれば」
前方に視線を送りながら町田は言った。
「1日に2冊ですか?」
彩乃が右横へ視線を送る。
「彩乃ちゃんも驚くほど速く読めるようになってると思うよ」
「はあ」
彩乃は半信半疑の返事をした。
「この辺りですよね」
「次の道を右です」
車で20分程度でも町田の自宅周辺とは随分、趣きが異なる。昔からの建物と新たな物が混在していた。町田は車をアパートの前に停めた。
「町田先生も見てもらえませんか?」
「じゃあ少しだけ。車置きっ放しなので」
3人が車から降り、2階アパートに向かう。
「こちらから入って1階の奥から2番目です」
佐世子が町田に説明しながら、鍵を取り出した。佐世子がドアを開けるまで、町田はアパートを眺めていた。決して新しくはない。築15年といったところか。
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若い罪(56)

2020-11-15 09:41:16 | 小説
町田はわずかに開いていた佐世子との距離を詰めていった。
「お姉さん」
町田の声はかすれ気味だった。彼女の両手は軽く佐世子の両肩に触れ、その背中に手を回した。時折、町田は強く佐世子を抱き寄せた。そのまま1分弱程だろうか、2人は動かず、そしてゆっくりと町田は佐世子を離した。
「ごめんなさい。でも本当に嬉しかった。姉の育海に再会できたような気がします」
町田は目頭を押さえていた。佐世子が初めて見た彼女の涙だった。
「お元気で」
その町田の短い言葉にどれだけの思いが込められているのか、佐世子は想像した。

町田の家を出ていく日が来た。荷物はすでに引っ越し先のアパートに運んである。
「じゃあ、そろそろ行きましょうか。車、出しますね」
町田の車でアパートまで送ってもらうことになっている。20分程度で新たな住処に到着するだろう。
「朋子先生、ちょっといいですか?」
彩乃はいつからか町田を下の名前で呼ぶようになっていた。
「うん、いいよ」
基本的に町田は彩乃の言ったことを否定しない。佐世子とどちらが本物の母親か分からなくなるくらい、町田は彩乃を可愛がり、彩乃は町田を慕っている。
「先生の部屋、見せてもらえますか?」
「別にいいけど面白いものは何もないよ」
部屋へ案内した町田は怪訝そうな顔だ。彩乃は本棚を見ている。
「彩乃ちゃん、今度は心の病に興味を持ったの?」
「いえ、そうじゃないです。もっと娯楽的な本です。それにしても凄い量ですね」
彩乃が目を移動させながら言う。
「それほどでもないよ。1000冊はあると思うけど」
結局、悩んだ末に彩乃が手に取ったのは警察小説と恋愛小説の文庫本だった。

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若い罪(55)

2020-11-14 22:35:22 | 小説
町田も我がことのように喜んでくれた。
「彩乃ちゃん、凄いね。やれば出来る子だとは思ってたけど、あの一流大学に合格するとは予想以上だった。今度、いつも外食するレストランよりもっと高級なところでお祝いしよう。彩乃ちゃんとお母さんと私の3人で」
町田はやや興奮気味にまくし立てた。
「先生のおかげです。世間から隔離された私達を率先して自宅に置いてくれて。そんな人は他にいないです」
彩乃の目は潤んでいた。佐世子は2人のやり取りを微笑ましく見ていたが、この後、町田にある決心を伝えなければならなかった。4月からは彼女の家を出て、自立して暮らすことを。すでに1年近く前から決めていたが、折角やりがいを見つけ、勉強に集中している彩乃に悪影響を与えてしまうかもしれないと思い、佐世子は黙っていた。しかし、もはやその心配はない。佐世子母娘にとって町田は恩人である。しかし、もし町田がこのまま一緒に暮らしたいと考えていたとしても、その部分だけは譲れないと覚悟は決めていた。

数日後、町田にそのことを話すと「寂しくなりますね」と言いながらも快く応じてくれた。佐世子は家賃を1万円しか払っていないのを気にして、町田に聞いてみた。すると町田は「逆にこちらから払ってでも住んでもらいたかった」と話した。佐世子が「何かご希望はないですか?私や彩乃に出来ることと言えば限られていますが」と尋ねると、町田は「この1年半が掛け替えのないプレゼントでした」と何も望まない。しかし、しばらくして思いついたようだ。
「ああ、それなら1つだけ」
町田は遠慮気味に口にした。
「『お姉さん』と1度呼んでもいいですか?」
佐世子は町田メンタルクリニックでの似たような出来事を思い出していた。
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若い罪(54)

2020-11-14 17:50:41 | 小説
まだ教師への復帰は難しいみたいだね」
本当は麻美にその気持ちが残っているのかさえ疑わしかった。
「そうなんだ。じゃあ、しばらくは塾講師で我慢するしかないのか」
「そのうち教師に戻れるよ。諦めなければね」
彩乃は「諦め」という言葉が引っ掛かったらしい。
「お姉ちゃんは教師を諦めようとしてるの?」
「いや、麻美は後ろ向きなことは何も話してはいないけどね。でも何度も不採用が続くと、気持ちが萎えてくるのも自然なんだよ」
佐世子は彩乃の不安げな顔を眺めながら、話せる範囲で遠回りしながら麻美の現状の厳しさを伝えたい思いだった。
「お姉ちゃんには絶対に教師に復帰する夢を捨ててほしくない」
彩乃は強い口調で言った。
「捨てないと思うよ、きっと。親バカかもしれないけど、麻美ほど子供たちに知らないことを教えるのが好きな人間はそうはいないと思うから」
佐世子は祈るような気持ちだった。

年が明けて、やがて新しい春が来た。彩乃は第1志望の大学の法学部に合格。2年前では考えもつかなかった。彩乃にとって父親が殺され、犯人が兄だったという事件は、18歳になったばかりの少女には過酷を通り越す悪夢だったに違いない。
佐世子はその時の彩乃の様子から「この子はこれから先、どうやって生きていくのだろうか?」という悲観的な考えを取り払うのに苦労していた。しかし彩乃は佐世子が思うより遥かに強かった。勿論、町田の助けがあってのことだが、大きな悲劇を推進力に変えて、ふらふらしていた女子高生だった自分を、難関大学に合格するまでに高めた彩乃を心から褒めてやりたかった。「合格したよ」と笑顔で報告した彩乃の誇らしげな笑顔の輝きを、佐世子は生涯忘れないだろう。
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若い罪(53)

2020-11-14 17:39:54 | 小説
今思い出したけど、麻美がまだ小学校に上がる前、部屋の中でぬいぐるみを2、3列に並べて、少し前まで私が麻美に読み聞かせてた本を、今度はあなたが偉そうにぬいぐるみに向けて読み聞かせてるの。あの頃から自分が知っていることを小さい子に教えるのが好きだったんだろうね」
「そんなこと、あったかなあ?」
麻美が恥ずかしそうに笑った。
「あの頃が一番楽しかったかもしれない」
佐世子はそう口にして俯いた。麻美も遠くをさかのぼるような顔をして頷いた。
二人は駅の東口前に止まった。

「じゃあ、私これで帰るね」
麻美がいま現在可能な精一杯の優しい顔を作った。
「強く生きなさい。あなたの人生はまだこれからだよ」
理屈でなく感情から佐世子は言葉を発した。僅かばかりの静寂が流れた。
「うん、わかった。お母さんも体に気を付けて」
麻美は背を向けて離れていった。背筋を懸命に伸ばしてはいるが、その背中には普通の若い女性にない哀しみが漂っていた。
「がんばれ麻美。負けちゃ駄目だよ」
佐世子は小さく呟き、駅中に吸い込まれていった。

佐世子が町田の自宅に戻ると、彩乃が玄関まで小走りで寄ってきた。
「お姉ちゃん、どうだった?」
「うん、元気だったよ」
彩乃は佐世子の素っ気ない返答に少し不満だった。
「もっと詳しく教えてよ」
彩乃が先を急ぐ。町田には「今日は埼玉の長女に会ってきます」と報告すると「じゃあ、今日は外食にしましょう」との提案があった。
「リビングで少し話そうか」
「うん」
彩乃は機嫌を直したようだ。彩乃とテーブルを挟んで向き合って座ると、彼女は改めて尋ねてきた。「お姉ちゃんの様子はどうだった」と。電話やメールでは頻繁に連絡を取っているものの、正月に麻美が町田の自宅を訪れて以来、顔を合わせていない。彩乃が麻美の様子を知りたがるのも無理はなかった。
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若い罪(52)

2020-11-14 14:52:00 | 小説
「学校の教員に戻る活動は続けてる?」
「うん。続けてるけど、なかなか上手くいかなくて」
会話がすぐに途切れてしまう。麻美もそれを察したのか立ち上がった。
「コンビニでスイーツ買ってくるね。意外と馬鹿にできないよ。5分で帰ってくるから」
麻美はジャケットを羽織り外に出た。しばらくして佐世子は軽い溜息をついた。実の娘が目の前から消えて安堵している自分が情けなく思えた。しかし、今の麻美はどこか人を寄せ付けない雰囲気を漂われているのだ。佐世子がざっと部屋の中を見回す。

小さな本棚には勉強家の麻美らしく、子供たちに対する教育書や好みの小説などが並んでいる。佐世子は横に目を滑らせる。そしてあるところでそれは止まった。夜の仕事、水商売の求人誌が存在感を放っていた。探しているだけかもしれないし、すでにこうした場所で働いているのかもしれない。部屋の隅には女性が好みそうな縦長のたばこのパッケージ。正志の事件により、やはり麻美は変わってしまった。しかし、それを知れてよかったのだと佐世子は自らに言い聞かせた。

麻美が帰ってきた。彼女が言うように確かにコンビニスイーツは美味しかった。食べ終えて一段落すると話題がなくなり、また沈黙が流れた。佐世子の居心地の悪さが限界に達した。
「じゃあ、そろそろ母さん帰るね」
「うん」
麻美は安堵したようだった。しかし、思い出したように佐世子に尋ねた。
「彩乃の勉強熱はまだ続いてるの?」
「飽きっぽいあの子にしては、よく続いてるみたい。どうしたんだろうね?」
「きっと彩乃なりの目的が見つかったんだよ。志望校に受かるといいけど」
麻美の社会に背を向けたような顔が、妹を思う優しい姉に取って代わった。
「あなたのクマのぬいぐるみ、彩乃が一応、面倒を見てるよ」
「ぬいぐるみだから、ほっといても大丈夫なはずだけど」
「いや、面倒を見るといっても、挨拶代わりに頭を強めに1、2回叩くだけだけど。
「彩乃らしい」
麻美はこの日最高の笑顔を見せた。美しい笑顔だった。
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若い罪(51)

2020-11-14 14:42:27 | 小説
正志の手紙を読んだせいか、麻美は大丈夫なのだろうかと急に気になりだした。荷物を出来るだけ簡素にして町田の自宅へ引っ越してきたのだが、麻美が特別に可愛がっていたクマのぬいぐるみは少ない持ち物に選抜され、彩乃が寝室として使っている部屋に飾ってある。麻美が町田のマンションを訪れ、それを発見した時、抱えて感激していたのを思い出す。

東京から埼玉へ。近いはずの埼玉も佐世子にとっては久しぶりである。住所を教えてもらった時、麻美は「埼玉の中では都会だよ」と話していたが、列車から降りて、少し歩けば住宅地だったり、古い街並みが顔を覗かせるところが、分厚いビル群で覆われる東京都心との大きな違いだった。麻美のアパートもそんな古びた街の住宅地にあった。
「久しぶり」
麻美の声が聞こえた。その背景には色あせたアパートが立っていた。
「元気にしてる?」
「まあ、何とかね。母さんは?」
「私は大丈夫だけど」

早速、麻美は、佐世子を部屋へ招き入れた。外階段を上がって2階に3部屋並んでいる。その一番奥だった。1Kというべきだろうか。バスもトイレもついていて、部屋はフローリングで6畳はありそうだ。佐世子は少し安堵した。欲を言えばキリはないが、若い女性が住む最低限の条件はクリアしているようだ。部屋の真ん中に小さな白いテーブルが置いてある。麻美は部屋の角にあった座布団をテーブルの近くに置き、佐世子にそこに座るよう促した。
「仕事の方はどう?」
「塾講師はやってるよ」
麻美の人相が少しきつくなった気がする。佐世子の前で柔らかい顔を作ろうとしている努力は分かるけれど、ふとした表情やしぐさに佐世子の知らない麻美がいる。
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