十二月八日(火)晴れ。大東亜戦争開戦の日。
今から六十八年前の今日、日本時間の十二月八日未明、ハワイ沖を南下中の我が空母機動部隊から、真珠湾に向って続々と攻撃機が発艦した。空母乗り組み員の振る日の丸と、万歳の歓声の中、日の丸の鉢巻を締め、爆音を轟かせて往く我が艦上機。
あの戦争が、戦後の左翼やアメリカや中国などの言うように「侵略」であったのか、アジア解放のための「聖戦」であったのかは、必ずや後世の歴史家が証明してくれるに違いあるまい。この日を、もっと日本人は誇るべきである。
早朝に、同志より、かねてから病気療養中だった、防共挺身隊の對馬則政総隊長逝去の報が入った。つい三四ヶ月前にお会いしたばかりだったので、その知らせが信じられなかった。肝臓が悪いとはお聞きしていたが、惜しまれてならない。
心からご冥福をお祈りする次第です。
午前中は、頂いたお歳暮のお礼状を書いたり、機関誌の発送を手がけたりで、忙しかった。午後は、一時過ぎの電車に乗って、九段会館へ。今日は、三時より、全日本愛国者団体会議(略称・全愛会議)の第五十二回全国大会に出席。私が、初めて全愛会議の全国大会に出席したのは、昭和四十八年の第十六回大会。靖国会館が、今のように改築される前で、天井には、東宝映画の「青島要塞爆撃命令」で使用された複葉機が吊るされていた。
以来、三十六年が過ぎた。阿形先生の申しつけで、乾杯の音頭をとったが、天下の全愛会議の全国大会で乾杯の音頭をとることになるとは、実に感慨無量だった。亡くなられた、荻島峰五郎、荒原朴水、岸本力男、小崎金蔵、小林健、小早川貞夫といった、全愛会議の重鎮であった諸先生の顔が浮かんだ。
敬天新聞社の白倉社主と久し振りに隣り合わせになり、よもやま話に花が咲き、昼間だというのに、社主に勧められて「芋焼酎」のロックを飲んだ。その白倉社主の「中締め」の音頭で終了。
終了後は、清水常二、平野剛健、新倉清の諸兄と共に、六時から開催される日本郷志同盟の忘年会に出席するために上野に向う。六時から宴会。内田春雄氏なども出席。二時間ほどで終了。ご指名により中締めをさせて頂く。終了後に、近くの店に転戦して二次会。上京していた矢野隆三氏も合流。十時過ぎに解散。JRにて帰宅。