二月一日(月)曇りのち雪。
天気予報では、夜に雪になるという。私は、なぜか雪と桜と聞くと、何となくそわそわしてくる。早い話が、酒を飲みたくなるのだ。北国と違って、横浜での雪は、キザなようだが、神様がくれたプレゼントのような気がする。しかし降るのが夜では、雪見の酒とはならない。それでもマッいいか。丁度用事のあった後輩に電話した。「雪で帰れなくなるので心配」というのを、「めったにない雪だから」と無理やり誘って、自宅の近くのすし屋「徳よし」で待ち合わせをすることにした。
下の子供が、土曜日が学校だったので、今日が代休。午前中は、子供と一緒に自宅の片づけをしたり、一緒に百人一首などして時間をつぶした。午後から、スケートに行く子供を送って事務所に。日当たりの悪い事務所は、まるで冷蔵庫のようだ。本や資料が山積みなので、ストーブなど火のつくものは置いていない。従って暖房は、家庭用のエアコンのみ。二台のエアコンのスイッチを入れても、二十二坪の事務所は、暖かくなるのに時間がかかる。原稿に使用する写真などを探したり、来月の原稿の準備などして事務所を後にした。
今日、二月一日は、正気塾の若島征四郎先生のご命日である。私の記憶に誤りがなければ、平成十年の今日、亡くなられた。五十四歳という若さであった。その日、私は、鬼怒川温泉で開催される国粋青年隊の新年会に行く途中であり、友人からの電話で若島先生の訃報に接した。当然、その日の新年会は、若島先生の追悼集会のようになった。
若島先生と初めてお会いしたのは、本島長崎市長銃撃事件の公判の支援で、長崎に行った折にご紹介された。その後、若島先生が長崎市長選挙に立候補した祭、野村先生と共に選挙応援に行ったり、風の会の選挙をご支援頂いたりと、私よりも、野村先生と親しくされていた。肝臓が悪くて入院をされている時に、二度ほどお見舞いに行ったが、それが最後のお別れとなった。
私は、道の兄である花房東洋先輩から教わって「名刺供養」ということを行なっている。それは、野村先生の名刺を一番上にして、かつて名刺交換をして亡くなられた方の名刺を重ねて、野村先生の遺影の前に置く、というものである。その名刺も、すでに名刺入れが二箱になる。正に、歳歳年々、人同じからずや、という思いを実感する今日この頃である。
夜は、後輩と、近所の寿司屋で一献。店に入った頃から、雪が降り始めて、後から入ってくる客の体に雪がついている。寒いので、久し振りに、日本酒の熱燗を飲んだ。帰る頃には、道路が真っ白だった。野村先生の代表句でもある、
俺に是非を説くな 激しき雪が好き
が、雪の日には相応しいが、私は、雪を見て、思い出すのは、
雪の夜の壁に貼りつく汽笛の尾
が好きだ。網走の独房でも、網走駅発の釧網線の最終電車の汽笛が聞こえた。それでなくとも、哀愁を伴う汽笛が、雪の日には、より一層、煩悩を深いものにした。そういえば、先生の句に、
煩悩のしずまれば雪野 截つ汽笛
がある。今月の十四日は、野村先生の生誕祭が群馬の雷電神社にて行なわれる。維新回天の思いを秘めて、門下生が集う。お元気ならば、今年で七十五歳となられる。