白雲去来

蜷川正大の日々是口実

国粋青年隊の矢代和剣総裁の葬儀に出席。

2010-02-21 16:57:06 | インポート

二月二十日(土)晴れ。

 八時に起床。朝食は、先日、群馬の雷電神社に行った折に頂いた、うどんにした。私は細うどんのファンだが、家族は皆、太いうどんの方が好みである。ちなみに、太いうどんで絶品なのは、日本皇民党の大島総裁から頂いて以来、常備している讃岐の「かな泉」というメーカーの物が一番である。細いのは、生でも、乾麺でもさほど大差ないが、どこか美味い物がありましたなら教えてください。

 十一時に、わが家に志村馨、松本佳展の両君が来訪。少し遅れて、藤巻強氏らも来訪。今日は、東京の小石川にあるお寺で、昨年の大晦日に亡くなられた、国粋青年隊の矢代和剣総裁の葬儀が行なわれるので東京行き。

 式の開始の三十分ほど前に到着したが、お寺は矢代総裁とのお別れに馳せ参じた全国の民族派の諸先生、諸先輩、同志の方々で溢れていた。一時に式は開始され、葬儀委員長の藤元正義氏のご挨拶に続き、新たに民族革新会議の議長になられた犬塚哲爾氏が弔辞を読まれた。

 弔辞には、犬塚氏と矢代総裁との出合いから、民族派運動全般に至るまでの関わりを語り、会場の人たちを感動させた。その弔辞は、そのまま矢代総裁の運動史、人物史としてもすぐれたもので、その場限りのものとさせては、本当に勿体ないように思えた。

 私と、矢代総裁との出会いは、昭和の四十九年頃か。やはり亡くなられた大磯の大日本殉皇会の小早川貞夫先生が主催していた「紀元節奉祝神奈川県大会」に、矢代総裁が始めて参加したした時に、小早川先生からご紹介された。当時、私が所属していた団体の責任者である小早川久之先生が、民族革新会議に参加していたこともあり、同じ民革の同志であった、矢代総裁とは自然と親しくさせて頂いた。

 国粋青年隊の初期のころは、私も良く街宣活動をお手伝いし、共に全国を駆け巡ったものだ。当時の写真が古いアルバムにあるが、いずれ、私なりに追悼特集を行ってみたいと思っている。

 終了後は、横浜に戻るが、沖縄から友人が上京しているとの事で、中華街にて待ち合わせをした。四時に合流。松本佳展君らと「天外天」へ。ここは四川料理の店で、辛さがハンパではない。鳥の唐辛子炒めや麻婆豆腐など唐辛子を使った料理が多く、辛いものの苦手な人は、それこそヒーヒー言いながら食べることになる。一時間ほどで再会を約して解散。松本君に自宅に送って頂き、今日は早目に寝た。


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言論報国、とはチト大袈裟か。

2010-02-21 01:01:07 | インポート

二月十九日(金)晴れ。

 昨日、休肝日としたせいか、寝つきが悪かった分、寝起きは良かった。朝食の後は事務所にて仕事。「大吼」の編集、連載原稿の準備。さらに、随分前に作家の大下英治氏からインタビューを受けたものが、活字となって送られてきた。何と、七十五枚もある。

 私が脈絡もなく喋ったものが、リライトされずに、そのまま活字となっているので、校正が大変である。全て使用されることはないだろうが、全ての校正には時間がかかり、頭が痛い。

 こうして、原稿を書いたり、機関誌の編集や発行したりする作業は、実に地味な仕事である。最近は勉強会に参加することも稀だし、もちろん街宣やデモといった街頭行動に参加しなくなってから久しい。

 それでも、私が編集、発行した雑誌によって政治運動に目覚める人もいるかも知れないし、新しい同志との出合いがあるかも知れない。読む人に感動を与えるような雑誌作りに日々精進するつもり。

 文章を書くのは、私にとってある種の苦行である。才能のなさを棚に上げて、愚痴をこぼしても仕方がないが、カップヌードルのように、お湯を注げば、三分で文章が出来ないものかと、思うことしばしばである。

 かつてあった、「新勢力」「青年群像」「愛国戦線」といったような月刊誌を作ってみたいと思っている。まずは「大吼」の月刊誌化が、私の最大の夢でもある。

 夜は、友人が来訪。久し振りに中華街の「安記」にて一献。モツ皿、レバ皿、シュウマイ、イカとインゲン炒め、小松菜炒め、蒸し鶏などの小皿料理で、紹興酒を二本空けた。その後は、関内に転戦し、最後はサリーの店で仕上げ。十一時過ぎに帰宅。中破・良飲の夜だった。


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