二月十日(水)曇りのち雨。
七時に起床。家族で朝食。冷凍保存しておいた、紅鮭、納豆、もやしのみそ汁。名古屋の友人から頂いた「森口漬け」、という、正しい日本の朝食。
八時を過ぎると、家にいるのは私だけである。「大吼」の春号の校正に精をだす。今回は、小沢一郎批判特集号となる。一時過ぎから事務所へ。本の注文やDVDの注文が来ていて、その発送を行なったり、資料の整理などをして、四時過ぎに帰宅。
今日は、六時より、六日に逝去した、「清水苑」のオヤジの通夜が久保山の一休庵という葬儀場にて行なわれるので、家人と共に喪服に着替えてから家を出た。自宅の近所の焼肉屋「清水苑」のオヤジこと永山悠基さんと私は同じ歳であり、中学は隣同士。私が、現在の家に引越してきてから、馴染みとなり、仲良しになった。
自宅までの帰り道には、必ず、店の前を通るので、車のスピードを落として、店の中を見ると、暇なときは、オヤジが入り口のテーブルに腰掛けて、焼酎のサワーを飲みながらテレビを見ている。近所のオヤジ連中が一緒の時もある。つい私も寄り道して、一杯飲んでしまう。大体食事を済ませてきた後なので、料理など取らずに、親父と馬鹿っ話をしながら、閉店まで、ということが度々あった。
そのオヤジが体調を崩したのが、一年半前ぐらいか。案の定肝臓を悪くした。家族や周囲の心配をよそに、一向に酒を止めない。腹水がたまって、顔もむくみ、大黒様のような体になって、ようやく入院。でも、少し良くなると、病院で隠れて、缶チューハイを飲み、医者にバレて、病院を出される、という事が何度か続いて、さすがに家族もあきらめた。
しばらくは、店を息子に任せて、自宅療養をしていたが、コンビニでばったり会ったら、缶チューハイを抱えていた。悪戯を見つかった子供のように、慌てていた顔を思い出す。
次に会った時は、酒が入ると、立ち上がることも出来ないくらい弱っていた。馴染みの客も、あきらめていて「冥土の土産に一杯飲め」と、仕方なく酒を勧めていた。
お店のママも、「好きなように生きてきた人だから、好きにさせてあげるの」と、サワーを持ってきた。女房というものは、菩薩のようだと、感じた一瞬だった。
そのオヤジが、突然脳梗塞で倒れたと聞いたのは、昨年の十一月だった。家人と見舞いに行ったが、生きているだけで、反応が全くなかった。「ユキちゃん」と声をかけたが、聞こえたのだろうか。やはり脳梗塞で倒れた母のことを思い出した。
葬儀は、殆どが町内の人たちで、皆、飲み仲間。関内の綺麗どころも随分と来ていて、オヤジが元気で、ネオン街でブイブイやっていた頃のことが、浮かんだ。葬儀に来ても一寸の隙もない喪服姿のネェさんたちも皆、一様に目を赤くしていた。
私が、彼の店を友人に紹介して、常連となった人たちも来てくれていて、その中の一人、後輩のS君を誘って、久し振りに関内へ弔いの酒を飲みに出た。
「写楽」で、寿司をつまんで、古い付き合いのママのいる店に転戦したのちに、仕上げは、やはりサリーの店。十二時過ぎに帰宅したが、傘をさそうか、どうしようかという程度の霧雨が降っていた。土砂降りの雨よりも、この程度の雨の方が、悲しみが増すこともある。