九月二十八日(火)雨のち曇り。
二十四日の、ブログに、明治時代に日本に来訪したロシアの皇太子を切りつけた、いわゆる「大津事件」について書かせて頂いた。当時の我が国の司法当局者が、政治家の圧力に屈せず、司法の独立を守ったことを当時の国際世論は評価したのである。
歴史に学び、それを教訓とすることは誰もが考えることで、二十八日の「産経抄」にも大津事件に触れて書いてあった。産経抄では、「大津事件で犯人の津田三蔵には無期判決が下った。死刑を望んだ政府の圧力に抗し、大審院長、児島惟謙が『司法の独立』を守った、と歴史の教科書にある。今回の中国漁船の衝突事件は、『その場しのぎの男たち』が中国に屈した、最悪の外交の事例として、紹介されることだろう」と書いた。
その大津事件には、もう一つのエピソードがある。
来日中のロシアのニコライ皇太子が暴漢に襲われて重傷を負う事件が発生(大津事件)、日本中が騒然となった。そうした中、ロシア皇太子が本国からの命令で急遽神戸港から帰国の途につくことになった。
それを知った畠山勇子という二十七歳の女性は、帰郷するからと奉公先の魚問屋を辞め、下谷の伯父の榎本六兵衛宅に押しかけた。榎本は貿易商で、島津・毛利・山内・前田・蜂須賀ら大名家が幕府に内緒で銃を買い入れていた武器商人で、維新後は生糸の輸出で財をなしていた。
勇子は伯父ならば自分の気持ちを理解してくれるだろうと考え、「このまま帰られたのでは、わざわざ京都まで行って謝罪した天皇陛下の面目が立たない」と口説いた。
伯父は一介の平民女性が国家の大事を案じてもどうなるものでもあるまいと諫めたが、思い詰めた勇子は汽車で京都へ旅立った。
勇子は、一八六五年、安房国長狭郡鴨川町横渚(現・千葉県鴨川市)に畠山治平の長女として生まれる。畠山家は鴨川の農家で、かつては資産家であったが、明治維新のおりに私財を投じたため、生活は貧困であったという。五歳で父を失い、十七歳で隣の千歳村(現南房総市)の平民に嫁いだが、うまくいかず二十三歳で離婚。東京に出て華族の邸宅や横浜の銀行家宅の女中として働いた後、伯父の世話で日本橋区(現・中央区)室町の魚問屋にお針子として住み込みで奉公する。
父や伯父の影響で、政治や歴史に興味を持ち、政治色の強い新聞などを熱心に読み、店の主人や同輩たちから変人とみなされていた。大津事件が起こるや、国家の有事としきりに嘆いたが、周囲は「またいつもの癖が始まった」と相手にもしなかったという。
勇子は京都で様々な寺を人力車で回った後、五月二十日の午後七時過ぎ、「露国御官吏様」「日本政府様」「政府御中様」と書かれた嘆願書を京都府庁に投じ、府庁前で死後見苦しからぬようにと両足を手拭で括って、剃刀で咽喉と胸部を深く切って自殺を謀った。しかしすぐには死ぬことができず、すぐに病院に運ばれて治療が施されたが、傷の深さゆえ出血多量で絶命した。享年二十七。
当時の日本はまだ極東の弱小国であり、この事件を口実に大国ロシアに宣戦布告でもされたら国家滅亡さえ危ぶまれる、彼女はそう判断したのである。伯父や母、弟にあてた遺書は別に郵便で投函しており、総計十通を遺していた。
その壮絶な死は「烈女勇子」とメディアが喧伝して世間に広まり、盛大な追悼式が行われた。
墓は末慶寺(京都市下京区万寿寺櫛筍上ガル)にある。彼女の墓にはラフカディオ・ハーン(小泉八雲)やポルトガル領事・モラエスも訪れている。モラエスはまた、リスボンの雑誌『セロエーズ』 Seroes に彼女を紹介している。
彼女の死は、ニコライ皇太子に宛てた遺書やセンセーショナルな新聞の報道などによって国際社会の同情をかい、ロシア側の寛容な態度(武力報復・賠償請求ともになし)につながったとの評価もあるそうだ。