白雲去来

蜷川正大の日々是口実

重陽の節句に師を思う。

2010-09-10 00:11:10 | インポート

九月九日(木)曇り。重陽。

 今日は陽数の極である九が二つ重なるので重陽の節句。古代中国ではこの日、邪気を払い長寿を祈念して菊酒を飲む風習があった。漢詩にはこの日のことを詠んだ誌が数多あるが、何といっても王維の「九月九日憶山東兄弟」が人口に膾炙されているのではないだろうか。

 

 我が家では、菊酒を飲むような風流な習慣はないが、私は菊と言えば、野村先生が、獄中で三上卓先生の逝去の報に接した時に詠んだ句、

 

  白菊の白が溢れてとどまらぬ

 

 がすぐに脳裏に浮かぶ。若い頃は、この野村先生の句を深く考えることもせずに、ただ字面でなんとなくいいなと思っていたが、この句の深い意味を思い知らされる出来事があった。

 それは網走の独房時代。母から手紙を貰った。鉛筆で書いたクセのある字は随分と読みづらかったが、考えて見れば、母から手紙を貰うことなんてなかっただけに、その鉛筆の字の一文字、一文字が身に沁みた。

 

 手紙には、私が起こした事件によって幼くして別れた前の子供が、母の所に来ると、「どうしてお父さんはいつもいないの。私のことが嫌いになったから会ってくれないの」と言って泣くので、どう説明したらよいか困っている。とあった。

 

 それを読んだ時に、思わず落涙してしまった。丁度看守が見回りに来るのが分かったので、泣いている姿など見せたくはなく、後ろを向いて探し物をしているふりをした時に、独房の小窓から名前も知らないオレンジ色の小さな花が目に入った。

 

 すると、その花のオレンジが涙で目の中に一杯になり、瞬間、なぜか野村先生の、前述の句が頭に浮かんだのである。そうか、そうだったのか・・・。先生もきっと同じ思いをしたのに違いないと気がついた。

  この事があって以来、正に目からウロコが落ちるように先生の句の意味はもちろんのこと、どんな思いで先生が句を詠んだのか、分かるようになった。

 

 戦線復帰してから、この話を先生にしたら、「それが分かっただけでも、お前の獄中生活は無駄じゃなかったよ」と言われた。

 先生の句集「銀河蒼茫」の句のどれもが、私には先生の言葉として聞こえる。

 

 まためぐる秋のさみしさ 天の濃さ 

 

 先生の句である。来月は先生の十八年忌墓前祭を行なう。先生のご命日が近くなると、まためぐる秋のさみしさに押しつぶされそうになる。

  「大吼」の校正が印刷所からとどいた。今日は、酒を抜いて仕事をしている。


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