九月二十三日(木)曇りのち雨。秋分の日。
涼しいと思ったら、一雨きた。祭日の雨の中を、上の子供は部活とやらで学校に行った。休みの日ぐらいは、家にいたらいいのに、と思うのは私のわがままか。
今日は、夜六時より久保山の火葬場近くの「一休庵」という葬儀場にて、友人の告別式があり出席した。亡くなられた方は、私よりも若い。最後にお会いしたのは、昨年の夏の事。その時は、病気と言う感じではなかったのだが。聞くところによれば、「リンパ癌」で、余命一年といわれていたと言う。 通夜式では、久し振りに会う人たちが多かった。十年、二十年ぶりに会う人がいて、互いの無事を喜びながら、逝く人を偲ぶ。何か不条理な気もするが、それも人生だろう。涙雨の中を自宅に戻った。合掌。そういえば、一昨日にアップした「自由民主」の記事昨に関して、また面白いものを見つけたので、転載させて戴く。
010年1月6日、孔子の第75代直系子孫で日中関係評論家の孔健(こう・けん)氏は、「“謝罪”から見る日中のお詫び文化の違い」と題した記事を中国のブログサイトに発表した。以下はその概略。
日本人と中国人の「お詫び」に対する文化は大きく違う。
例えば、10年近く前に当時の小泉純一郎首相が訪中した際、北京郊外の盧溝橋
(編集注:日中戦争の引き金となった盧溝橋事件の舞台)で「心からのお詫びと哀悼の気持ち」を表明したが、中国人はこれを日本の首相による公式な謝罪と受け止めた。
だが、日本人にしてみれば単に個人的な気持ちを述べたに過ぎず、謝っている訳ではなかった。
日本人の「お詫び」は自分のメンツを保つ方法の1つとなっている。
日本では許しを乞うことでその人のイメージや尊厳を回復させることができるのだ。少し前に鳩山由紀夫首相が母親からの違法な政治献金問題で、記者会見を開き、国民に謝罪した。
これこそが自らの罪を一掃させる最良の方法で、こうすることで国民の許しが得られる。だが、中国人にしてみれば、一国の首相たる者が国民に謝罪をするなど到底理解できない。
中国人にとって謝ることは、メンツを失う行為である。例え自らの過ちを分かっていても、絶対に謝らない。 中国人にとって謝罪とは、勝ち負けそのもの。謝ってしまったら負けなのだ。
例えば、数年前に瀋陽の日本領事館で北朝鮮人が駆け込みをはかった際、中国の武装警官が敷地内に無断で足を踏み入れた事件があった。
この時、日本側に謝罪を求められた中国側は頑として謝らなかった。
中国人はこれを日本への勝利だとし、大いに自己満足に浸ったのである。
しかし、謝らないことでメンツは保てるが、国際的な信用は失うことに我々中国人は気付かなければならない。 間違ったことをしたら思い切って謝ってこそ、国際化に向けた第一歩が踏み出せるのではないだろうか。
そうすることで、中国が抱える「信用問題」も解決に導かれるはずだと信じている。(翻訳・編集/NN)
●孔健(こう・けん)
孔子の直径第75代目の子孫で、孔子研究家、日中関係評論家。山東大学日本語学科を卒業し、85年に来日。 96年、チャイニーズドラゴン新聞を創刊。
NPO法人日中経済貿易促進協会理事長などさまざまな日中関連の機関で代表を務める。「日本人は永遠に中国人を理解できない」「日本との戦争は避けられない」など著書多数。