三月三日(日)晴れ。
今日はひな祭り。雛飾りの一番上にあるのが「内裏雛」。「内裏」と言うのは皇居の内で、両陛下の私的な部屋のことである。すなわち「内裏雛」というのは、天皇、皇后両陛下の形に似せた一対の人形を意味している。ご皇室に関心がなくとも、また反日の思想を持っている人でも、女の子がいれば、一度は雛人形を飾って娘の成長を祝ったに違いあるまい。このように日本人と皇室は意識しようがしまいが、常に一体なのである。
又、今日は安政七年に起きた「桜田門外の変」の日。今更、説明の必要はないだろうが、余り知られていないのが、襲われた際に伊井大老に付き従っていた家臣たちのその後。襲撃により、藩主である直弼以外に八名が死亡し(即死者四名、後に死亡した者四名)、十三名が負傷した。戦って亡くなった者の家には跡目相続が認められたが、二年後の一八六二年(文久二年)に、直弼の護衛に失敗し家名を辱めたとして、生存者に対する処分が下された。草刈鍬五郎など重傷者は減知の上、藩領だった下野国佐野(栃木県佐野市)に流され揚屋に幽閉される。軽傷者は全員切腹が命じられ、無傷の士卒は全員が斬首・家名断絶となった。処分は本人のみならず親族にも及んだ。
襲った水戸浪士側も複数人が死亡するか重傷を負って自害し、また数名を除いて自首して処刑さた。事件後幕府は徹底した捜索を行い、数年の内に逃走した水戸浪士ら数名を捕らえて処刑している。逃げ延びて明治を迎えたのは 十八人の内、増子金八と海後磋磯之介の二人だけである。吉村昭の「桜田門外の変」とその小説をもとにして製作された同名の映画を、この時期に読み、見ることも良いかもしれない。
更に、今日三月三日は、昭和五十二年に、恩師らが「財界の営利至上主義を撃つ」として、財界の総本山である「経団連会館」を同志らと共に襲撃占拠した、いわゆる「経団連事件」の日。平成九年の「経団連事件」の二十周年を記念して、「燃えよ祖国」の前身である「大悲ジャーナル」の第五十八号と五十九号において特集号を作った。五十八号では、事件の論評を特集し、五十九号では、裁判記録等を掲載した。いずれ合併して小冊子にしたいと思っている。
※「経団連事件」の二十周年特集号。
この「経団連事件」から三十六年目の今日、平成の十八年に戦線復帰を目前にして、四十九歳と言う若さで肝臓癌で獄死した板垣哲雄君の墓参に行った。本当は明日が命日なのだが、色々な意味で日が良いこともあって今日にした。十一時に松本佳展君に迎えに来てもらい新横浜駅の近くにある古刹、三会寺へ行く。お寺で、志村馨君ご家族、自宅がすぐ近くの岩上賢先輩や私の友人氏らと待ち合わせてお墓へ。友人氏らが先にお墓をきれいに掃除しておいてくれた。線香を手向けて、ビールを供えた。
※「堅忍憂雄信士」板垣哲雄君のお墓。
終了後は、藤棚の「愛福楼」にて直会。佐伯氏が合流。二時間ほどで解散。夜は、佐伯氏と愚妻、アコチャンと一緒に久しぶりに「清水苑」にて夕食。