白雲去来

蜷川正大の日々是口実

憂国の志士。

2013-03-20 08:32:18 | インポート

三月十八日(月)曇り。

 昨日の強風で、我が陋屋が揺れ、その音がうるさく中々寝付かれなかった。六時に起きたが、寝不足でぼーっとしていた。我が家は、上の子供が六時半に家を出て、次が愚妻が八時少し前、最後が下の子供が八時半に学校に行く。食事や弁当の段取りを済ませて、キッチンの片づけなどがすべて終わるのが十時近く。それからのんびりとCDを聞きながらコーヒータイムである。

 

コーヒーは、一杯づつ入れる「モンカフェ」が好きだが、生憎切らしていて、コーヒーメーカーで、三杯分ほどたてる。薄めの、いわゆるアメリカンコーヒーが好きだ。テレビを見るのは十一時半。フジテレビのニュース。猫の目をしたような女性のアナウンサーの表情が良くて必ず見る事にしている。

 

以前、この朝の話を知り合いにした所、「蜷川さん。イメージが壊れるのでやめて下さいよ」と言われたことがあった。恐らく、右翼イコール「フィクサー」、あるいはすごい豪邸に住んで運転手つきの車に乗っている、などのイメージがあるのだろうか・・・。私の知る限りでは、右翼・民族派の活動家に、そんな生活をしている人は、まずいない。六十を過ぎた右翼の浪人など、大体が私のような生活環境にある。いや飯の支度まではしないかもしれないが。まあ私の場合、趣味が料理なのだから仕方がない。

 

戦前の黒竜会の内田良平先生の作と言われているのに「憂国志士」と言うものがある。この憂国の志士で思い出すのが、その黒竜会の系統を継ぐ大日本生産党の北上清五郎先生の事務所に、やはり亡くなられた元楯の会の阿部勉さんと行った折のこと。北上先生が、「おお、これは憂国の志士のお二人が来た」と言うので、阿部さんと、私が恐縮していると、北上先生がすかさず、「いや夕方になると、必ず顔を出して飲みに誘うので『夕刻の志士』だよ」。これにはギャフン。もう亡くなられて八年になるが、本当に良い先輩、指導者として尊敬していた。

 

話が横道にそれたが、内田良平の「憂国志士」は、「生きては官に養はれ 死しては神と祀らるる 幸ある人の多き世に こは何事ぞ憂国の 志士てふものは国のため 尽くしつくして草莽の 伏屋の軒と朽ちはつる 弔ふものは泣く蟲の声より外に亡き後も 不滅の精神 皇国守る」。この歌も北上先生がとても上手だった。まあ気障なようですが、「伏屋の軒と朽ちはつる」のが精一杯の生活に喘いでいます。仕方なく、今日も我が人生を反省しつつ、月下独酌。 


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春の嵐か。

2013-03-20 07:55:21 | インポート

三月十八日(日)曇り後雨。

 朝からすごい強風が吹き荒れていて、まるで台風みたいである。これでは花粉の集中攻撃を浴びそうで、おいそれと外には出かけられないと、夕方まで家でじっとしていた。何をしていたかと言えば、もちろん仕事。私が発行している機関誌「燃えよ祖国」の編集で作業である。機関誌も今月号で第百九十五号となる。

 

年に十回の発行として、単純に計算してもう十九年も発行していることとなる。初期の頃は、「大悲ジャーナル」で、平成十四年の一月号から、現在の「燃えよ祖国」に改題した。その理由は、私が大悲会の会長の座を後進に譲って久しいのに、大悲会の機関誌と誤解されるからである。「燃えよ祖国」の名は、私が不在の折に野村事務所で発行していた情報誌の名前で、命名者は野村先生である。年内に、二百号記念号を出す予定でいる。お世話になった様々な方たちに原稿を頂こうと思っている。


どうも我慢が出来ずに、松原商店街へと車を走らせ、「魚幸」で「マグロのブツ切り」(大体千円から千五百円で三人分くらいある)を買った。まあ、たまにはずれと思う時もあるが、そんな時は稀でいつも美味しい。「さつま島美人」を相手に飲んだ。

1※創刊号である。獄中者ばかりで、植垣さん以外は皆さん亡くなられてしまった。


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