九月30日(水)晴れ。
いやー久しぶりの良い天気。正に秋晴れ。そんなスカットとしたあさの食事は、サンマのみりん干し、納豆、ナスの糠漬けにワカメのスープ。昼は、抜いた。夜は成城石井で買ったおでん種でおでん。人参シリシリのマリネを肴に「黒霧島」で月下独酌。
以前読了した紀田順一郎の『知の職人たち』(新潮社)という本の中に、「今は読まずにいても、書棚に備えておくだけで不断に鼓舞される書籍がある」と言うことが書いてあった。28日のブログに書いた『東亜先覚志士記伝』なども私にとっては「書棚に備えておくだけで不断に鼓舞される」本である。
『知の職人たち』にはそんな書籍が紹介されている。早稲田大学図書館の奥深く、五百四十五の帙(書冊の損傷を防ぐために包むおおい。多く厚紙に布を貼っている)に収まって、数万枚の膨大な原稿が保存されている。美濃紙に木版手刷り、二十五字詰め十四行の原稿用紙は毛筆の細字でびっしり埋め尽くされ、所々に苦心の推敲を窺わせる貼紙があるが、わずかな例外を除いて、たった一人の筆蹟であることに驚かされる。字数にして千二百万字、おそらく個人の著述としては最大規模であろう。
明治の後半としての時代に、一人の貧しい無名の学究が、ひたすら学問的情熱に駆られてこの原稿を綴った。学歴はなく、前途に何の保証もなかったが、天稟の才質と情熱に恵まれていることだけが、わずかな救いだった。周囲の人々も、その可能性という名の手形に賭けた。十三年という年月を経て、すべての原稿が成ったとき、著者は序文にただ一言、「悪戦僅に生還するの想あり」とのみ記した。その真相を知る者はいまや絶えてしまったけれども、多くの心ある研究者たちは、いまなお学問的情熱そのものの源泉を、本書の中に見出している。 著者の名は吉田東伍。書名は「大日本地名辞書」。一九八二年に「途材」と名づけられた未完の稿本、約八千枚を加えた増補版が完結した。 初版以来、七十数年ぶりという息の長さも驚異である。
筆者の吉田東伍は元治元年(一八六四)新潟県の北蒲原郡安田村に生を受けた。小学校卒業後に、大学予備門としての新潟英語学校に入学。語学の他に数学、習字、水彩画などを学んだが、絵の才能を発揮したという。明治十年、英語学校が廃校となり、県営として新潟学校と合併したのを機に退学し、以後二十歳ごろまで独学で通した。二十歳で小学校の学力試験に合格、大鹿小学校の教員となり、翌年には新潟学校師範部に入学、中学部に転じるが、まもなく退学している。彼の学歴はここまでである。中学を退いた年に吉田家の養子となり、長女かつみ子と結婚した翌年には、一年生志願兵として仙台の兵営に入ってしまう。
志願兵時代は図書館に通い、仙台の地誌『観跡聞老誌』の記述を実地と比較研究した。これが地誌に志した動機である。明治四十二年(一九〇九)七月、四十六歳の東伍は『大日本地名辞書』編纂の功をもって、文学博士の学位を授けられた。このとき共に文学博士となったのは森鴎外他六人の学者であったが、東伍はその最高点であった。中学しか出ていない研究者が博士になったということは、学歴偏重の気風が生まれはじめていた当時、非常に注目された。
銚子第一の景勝地、清水琴平山(俗称・金毘羅山)の頂上に、東伍の死後友人や門下生が記念碑を建立し、その下には『利根治水論考』一巻が埋められている。(『知の職人たち』)より。銚子に行くことがあったなら、是非訪ねてみようと思っている。
いやー久しぶりの良い天気。正に秋晴れ。そんなスカットとしたあさの食事は、サンマのみりん干し、納豆、ナスの糠漬けにワカメのスープ。昼は、抜いた。夜は成城石井で買ったおでん種でおでん。人参シリシリのマリネを肴に「黒霧島」で月下独酌。
以前読了した紀田順一郎の『知の職人たち』(新潮社)という本の中に、「今は読まずにいても、書棚に備えておくだけで不断に鼓舞される書籍がある」と言うことが書いてあった。28日のブログに書いた『東亜先覚志士記伝』なども私にとっては「書棚に備えておくだけで不断に鼓舞される」本である。
『知の職人たち』にはそんな書籍が紹介されている。早稲田大学図書館の奥深く、五百四十五の帙(書冊の損傷を防ぐために包むおおい。多く厚紙に布を貼っている)に収まって、数万枚の膨大な原稿が保存されている。美濃紙に木版手刷り、二十五字詰め十四行の原稿用紙は毛筆の細字でびっしり埋め尽くされ、所々に苦心の推敲を窺わせる貼紙があるが、わずかな例外を除いて、たった一人の筆蹟であることに驚かされる。字数にして千二百万字、おそらく個人の著述としては最大規模であろう。
明治の後半としての時代に、一人の貧しい無名の学究が、ひたすら学問的情熱に駆られてこの原稿を綴った。学歴はなく、前途に何の保証もなかったが、天稟の才質と情熱に恵まれていることだけが、わずかな救いだった。周囲の人々も、その可能性という名の手形に賭けた。十三年という年月を経て、すべての原稿が成ったとき、著者は序文にただ一言、「悪戦僅に生還するの想あり」とのみ記した。その真相を知る者はいまや絶えてしまったけれども、多くの心ある研究者たちは、いまなお学問的情熱そのものの源泉を、本書の中に見出している。 著者の名は吉田東伍。書名は「大日本地名辞書」。一九八二年に「途材」と名づけられた未完の稿本、約八千枚を加えた増補版が完結した。 初版以来、七十数年ぶりという息の長さも驚異である。
筆者の吉田東伍は元治元年(一八六四)新潟県の北蒲原郡安田村に生を受けた。小学校卒業後に、大学予備門としての新潟英語学校に入学。語学の他に数学、習字、水彩画などを学んだが、絵の才能を発揮したという。明治十年、英語学校が廃校となり、県営として新潟学校と合併したのを機に退学し、以後二十歳ごろまで独学で通した。二十歳で小学校の学力試験に合格、大鹿小学校の教員となり、翌年には新潟学校師範部に入学、中学部に転じるが、まもなく退学している。彼の学歴はここまでである。中学を退いた年に吉田家の養子となり、長女かつみ子と結婚した翌年には、一年生志願兵として仙台の兵営に入ってしまう。
志願兵時代は図書館に通い、仙台の地誌『観跡聞老誌』の記述を実地と比較研究した。これが地誌に志した動機である。明治四十二年(一九〇九)七月、四十六歳の東伍は『大日本地名辞書』編纂の功をもって、文学博士の学位を授けられた。このとき共に文学博士となったのは森鴎外他六人の学者であったが、東伍はその最高点であった。中学しか出ていない研究者が博士になったということは、学歴偏重の気風が生まれはじめていた当時、非常に注目された。
銚子第一の景勝地、清水琴平山(俗称・金毘羅山)の頂上に、東伍の死後友人や門下生が記念碑を建立し、その下には『利根治水論考』一巻が埋められている。(『知の職人たち』)より。銚子に行くことがあったなら、是非訪ねてみようと思っている。