11月24日(火)曇り。野分祭。
明日は、昭和45(1970)年11月25日、東京の市谷台にある自衛隊の東部方面総監室にて憲法の改正などを訴えて自決した三島由紀夫、森田必勝両烈士の死から50年となる。野分祭は、自決なされた森田必勝烈士の自決前夜の思いを共有しようという趣旨で、烈士の辞世、「今日にかけて かねて誓ひし我が胸の 思ひを知るは 野分のみかは」から命名された。
当初は一水会が中心となって元楯の会の会員、民族派の学生運動の出身者らによって斎行されていたが、近年の野分祭は一水会から離れて、楯の会の一期生の伊藤好雄さんが祭主となって開催している。
随分前の野分祭で、司会を務めた犬塚博英先輩が、今日は全員「正座」で行うと言い、亡くなられた大野康孝宮司が心のこもった超、長文の祝詞を読んだ。日頃、日本の伝統文化を守れ。などと言いつつ普段正座などしたことのない私は、足が痺れて感覚がなくなっていった。間の悪いことに畳の部屋は満席で、私は廊下の板の間にいた。
祝詞が終わって、玉串の奉奠となった時、立ち上がれない人が続出。無理して立ち上がった人の中には転げる人もいた。私は、もし指名されたらどうしようかと、冷や冷やしていた。そんな雰囲気の中で、犬塚先輩が、「腹を切った森田の痛みに比べたら、足の痺れぐらいなんだ」と喝を入れた。それを聞いた私は、亀のように首をすくめたのです。野分祭を迎えると、いつもこの時のことを思い出す。
野分祭には、個人的な思いがあって随分と出席していない。来年は、伊藤先輩にご挨拶をして森田烈士のお墓に詣でたいと思っている。