白雲去来

蜷川正大の日々是口実

開戦記念日。

2020-12-17 11:17:09 | 日記

12月8日(火)晴れ。開戦記念日。

暖かい静かな開戦日(X日)。待ちに待ったその日はついに来た。午前三時というのに自然と目は覚め、起き出して一服していると、当直でかつ航空掛かりの佐々木参謀が大急ぎで飛び込んで来て、「三時十九分(ト)連送です」と報告す。すなわちハワイに近迫せる機動部隊の飛行機二百機が、真珠湾に対して突撃を下命せるなり。飛行機の電を直了せるところ、鮮やかなるものなり。

それから作戦室に座り込んで、来る電報、電報に耳をそばだてる。飛行機上よりする「我、敵戦艦を雷撃」「我、ヒッカム飛行場を攻撃、効果甚大」などの味方電報と併せ、敵の平文電報の発信が最も興味を引き、戦況は手に取るように分かる。以上は、宇垣纏の『戦藻録』に書かれた、昭和十六年の今日の日記である。

今朝も、「暖かい静かな」日である。已むに已まれず決然と起った、昭和十六年のこの日を日本人は忘れてはならないと思う。通称、東京裁判において、インドのパール判事は、米国側が我が国に対しての最後通告、通称「ハル・ノート」に対して、こう述べている。

「『現代の歴史家でさえも、次のように考える事ができる。すなわち、今次戦争についていえば、真珠湾攻撃の直前に、アメリカ政府が日本政府に送ったものと同じ通牒(注・ハル・ノート)を受け取った場合、モナコ公国、ルクセンブルク大公国のような小国でさえも、アメリカに対して武器を持って立ち上がったであろう』と述べ、日本の指導者たちが愛国主義である限り、アメリカの苛酷なる最後通牒を退けて、立ち上がらざるを得なかったのは当然であり、日本にとって、生存の為自衛の為、やむを得ない措置であったとしている」。

野村先生は、自決の際にしたためた檄文「天の怒りか、地の声か」の末尾に、こう書いている。「いつの日か必ず有色人種である日本人が、白色人種と三年半にわたって死闘を展開した、真の意味が何であったかは、後世の歴史家が明らかにしてくれるであろう」と。深く先人を思う・・・。※写真は、「赤城」が傍受した「ニイタカヤマノボレ」と、「我、奇襲に成功せり(トラトラトラ)」の電文。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

一門の納会。

2020-12-17 10:52:35 | 日記

12月7日(月)晴れ。

何の心配もせずにのんびりと寝ていた。体調は良い。盟友に感謝である。昼食に近い朝食は、ホットモットの「特のりタル弁当」、今だけ百円の「豚汁」。夜は、ロースハムのキャベツの千切り添え、サバの文化干し。ノンアル一本で休肝日とした。

昨日、断食から帰宅後に事務所に行き、郵便物の確認をしたり荷物の整理をしたりなどわずか四日ぐらいしか家を空けていないのに、こまごまとした仕事が山積。頑張ったが片付かなかった。夕方、愚妻を誘って、川崎の「中山」にて開催された一門の納会に出席。生憎先生の奥様が体調を崩して欠席。(流行り病ではありません。為念)他、三名が欠席したが、それなりに楽しい納会となった。私は断食明けなので、恐る恐る飲んだ。早めに帰宅。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする