白雲去来

蜷川正大の日々是口実

様々な三島由紀夫の本。

2020-12-09 15:06:33 | 日記

11月28日(土)晴れ。

起きてトイレに行こうとすると眩暈がする。酒が抜けていない。楽しくて、飲めば飲むほどに翌日が辛い。こんなことを、もう何十年も続けている。若い頃は、酒の上のマチガイはそれなりにあった。マチガイと言ってもアブナイものばかりでもなく、楽しいものもあった。無趣味な私は、日々の生活から酒は切り離せん。

楯の会義挙から50年。新聞の書評に様々な方の、様々な「三島由紀夫論」が掲載されており、ちょっと驚いている。研究者ではないので、すべて読む他力も気力もないので犬塚博英先輩に聞けば、西法太郎著『三島由紀夫事件50年目の証言・警察と自衛隊は何を知っていたか』(新潮社)が、裁判記録やともに決起した3人の楯の会の方々の供述調書などがあって参考になる。とアドバイスを頂いた。一緒に本多清氏の本も購入するつもり。

夜は、仲良しさんご夫妻との食事会。さすがに今日は控えめにした。

 

 


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ヘロリンタンのコーロコロ。

2020-12-09 14:39:05 | 日記

11月27日(金)曇り。

別に、購読料を頂いてこのブログを書いている訳でもないので、遅れようが、停滞しようが文句を言われる筋合いはないのだが、ただ自身の備忘録とボケ防止に加えて「書く」と言うことを持続するために、更新している。それも、ちょっと気を抜くとこうして遅れてしまう。何とか正常に(実はこれを書いているのは12月の9日)戻そうと思って、25日からまとめて書いている。

夜は、年下の友人お二人と「オアジ」にて会食。お二人ともお店を気に入ってくれて嬉しかった。その後、関内へ転戦。サリーファミリーが良く行くという「米婆」(Berもじったのだろう)と言うお店へ。ママさんは、サリーのパーティーやお神輿でよく一緒になる人。初めてのお店の割には知った人ばかりだった。飲んでいるときに、先日お世話になったO氏がサリーのお店にいるとのことで顔を出す。この時点でヘロリンタンのコーロコロ。久しぶりの大破・轟沈の夜でした。

 

 

 

 

 

 


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霧笛。

2020-12-09 13:41:12 | 日記

11月26日(木)晴れ。

朝食は、昨夜のマグロを「ヅケ」にしておいたものと、納豆に大根の味噌汁。昼は、小盛のチキンライス。夜は、蒸し鶏、手羽先のから揚げ「世界のまーちゃん」(私のことです)に冷奴。お供は、「黒霧島」。

今年は、コロナのせいもあってお酉さまの賑わいがない。熊手を売る屋台は出るそうだが、飲食を伴う屋台は全てお休みとのこと。

別に、何をするのではないが「お酉さま」に行かないと季節に区切りがないような気がしてならない。子供の頃は、三の酉の季節になるとコートが必要だったが、温暖化のせいなのか、近年は厚手のコートなど着て行ったことが無い。横浜は、お酉さま、ボジョレー、上海蟹の季節が終わると大晦日。横浜港に停泊している船の汽笛が一斉に鳴って新年を迎える。それが一つでも欠けると横浜らしくない。

私が若い頃には、良く港に霧がかかった。その霧が風向きで関内方面にも流れてくると、日活映画のワンシーンのような様相を呈した。そこに船の汽笛でも聞こえると、本当に映画の主人公にでもなったような気がしたものだ。それを霧笛という。霧笛とは霧信号のことで、船舶が霧、もや、雪などで視界が悪いときに他船との衝突を回避するために鳴らす汽笛のこと。

作家の山平重樹さんのカラオケの十八番(おはこ)は、赤木圭一郎の『霧笛が俺を呼んでいる』。この映画のラストシーン、赤木圭一郎と芦川いずみの霧の波止場での別れのシーンが好きだ。もちろん場所は横浜港。

 


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五十年、国を憂いて草莽の。

2020-12-09 13:13:24 | 日記

11月25日(水)曇り。憂国忌。

早いもので、あの衝撃の日から半世紀、50年か・・・。当時、私は19歳だった。何かしたいが、何をして良いか分からず、ただ無為なる日々を過ごしていた。死んでいった人たちが、生きる術を教えてくれた。三島・森田の両烈士である。

生まれて初めて、天皇、国家、政治について考えようとした。しかし、勉強方法も分からず、自分の考えを表現することさえ出来なかった。知人の紹介で横浜の行動的な団体に入門し、ひたすら学び運動した。昭和50年、私が主宰していた横浜青年政治研究会という勉強会に河野邸焼き討ち事件にて12年の刑を終えて戦線復帰された野村先生を講師に招き、それがご縁で門下生となった。

もし、三島・森田両烈士の自決事件がなければ、間違いなく民族派運動とは関わり合いのない人生を送っていたのに違いない。昭和45年11月25日は、私にとって人生のターニング・ポイントとなった日でもある。

黒龍会の内田良平先生の歌、五十年 国を憂いて草莽の 野に彷徨いて 泣きに泣きたり。か。


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