白雲去来

蜷川正大の日々是口実

断食初日。

2020-12-14 11:35:55 | 日記

12月3日(木)晴れ。

朝食は、鮭のカマ焼、牛丼、ほうれん草の味噌汁。昼は無し。夜は、スープ一杯。

今日から恒例の断食である。自宅を一時に出て、東名、小田原・厚木道路、西湘バイパス、熱海ビーチラインを通って、ひたすら135号線を伊豆高原まで。約120キロ走った。宿に着いたのは四時過ぎ。オキ氏、今回初めて参加するI氏らは先着していた。

夜の食事は、スープ一杯のみ。食後に断食に対するアドバイスを受けたのち、部屋へ。いつもあるテレビがない。聞いたところでは、深夜まで見ている人がいて、苦情が多いので、撤去したとのこと。ワイハイにつないでもらってパソコンで仕事し、睡眠薬を飲んで早めに寝た。


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転戦、転戦また転戦。

2020-12-14 11:35:55 | 日記

12月2日(水)曇り。

午前中に、志村馨、松本佳展の両君に手伝って頂き、我が家にある読了した本や資料、大量の額縁などを事務所に運んでいただく。それなりに一仕事である。

一時に、伊勢佐木町にて来訪したオキ、雪田の両氏と待ち合わせて、天ぷらの名店「登良屋」にて昼食。このお店は、天ぷらはもとよりカツオ、メジマグロが絶品である。雪田氏いわく「こんな美味しいカツオを初めて食べました」。刺身と天ぷらを肴にお供は「一刻者」。お店の人曰く「夜七時までやっているので、のんびりと飲んでください」。そう言われても、そこまでの体力はない。

「一刻者」を空けてから、誰が言うこともなく「もう一軒行きますか」。満場一致で諾。中華街へ転戦。小籠包と水餃子の美味しい「北京飯店」へ。しばらく飲んでから、「モツ炒め」の美味しい「中華飯店」へ。紹興酒を一本空けた。時計を見れば、六時を過ぎている。こうなっては帰れない。関内へ突撃。サリーズ・バーへ。更にもう一軒ハシゴして帰宅したのは10時半。家族に呆れられた。明日から三泊四日の断食。最後の晩餐となった。


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愈々師走か。

2020-12-14 10:04:17 | 日記

12月1日(火)晴れ。

人生で迎える69回目の師走。そのほとんどが無為な日々で、過ぎ去った日々のことを思い出そうとしても、悔恨と言う言葉に遮られ、笑殺する以外にない。

宇垣纏の『戦藻録』の昭和16年12月1日の日記。「ついに12月1日午前零時を過ぎたり。決定の時機に到着せり。果たして考慮の余地ありや。長官(連合艦隊長官・山本五十六)、3日10時45分宮中に召され、出征前の拝謁と勅語を賜るため、4時、岩国より汽車乗車の出発せらる。」

勅語奉答案「開戦に先ち、優渥(ゆうあく=ねんごろで手厚いこと)なる勅語(ちょくご=天子の言葉。みことのり。お言葉)を賜り、恐懼(きょうく=おそれかしこまること)感激の至りに御座います。謹んで大命(たいめい=天皇の命令)を奉じ、連合艦隊の将兵一同、粉骨砕身、誓って出師(すいし=軍隊を繰り出すこと。出兵)の目的を貫徹し、以って聖旨(せいし=天子の考え。また、天子の命令)に応え奉つるの覚悟で御座います」。

開戦一週間前の緊張感が文面から伝わってくる。終戦から75年。負けたとはいえ、日本人の精神まで失ったわけではない。

一日事務所で片付け。五時半帰宅。例手紙二本書く。入浴後に、酔狂亭にて独酌。タコネギ、レタスの温サラダ、マクロのみそ漬け。

 

 

 


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ほとんど崖っぷち。

2020-12-14 09:17:53 | 日記

11月30日(月)晴れ。

良い天気である。お国から「換気」を奨励されているので、気合を入れて窓を全開にする。朝食は、昨夜の残りの「おでん」、マグロのみそ漬け。昼は、下の子供と一緒に「ビックボーイ」にてハンバーグ・ランチ。夜は、マグロの刺身、湯豆腐、トントロ焼。お供は、「佐藤の黒」。酔狂亭にて独酌。

怒涛の(そうでもないか)の11月が終わった。しかし毎日忙しい。このブログには、とりあえず生存情報程度のことしか書かないが、様々な人と会ったり、原稿やお礼の手紙を書いたりで、まあ大げさに言えば八面六臂である。人任せにできないことばかりなので、余計に忙しい。と思っているうちに、今月も終わり。

ー無常迅速という言葉があるが、まことにあれよあれよという間の時の流れではある。なんだか最近は、持ち時間があまり無くなったせいか、よけい身に沁みるー。

上記の文章は、野村先生が、昭和63年6月16日に書いた『銀河蒼茫』の「再度の『あとがき』として」の一節である。この時、先生は、53歳。私は、この時の先生から16歳も年上であり、持ち時間がないどころか、崖っぷちに立っている。嗚呼!


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