白雲去来

蜷川正大の日々是口実

あゝ野麦峠。

2024-02-01 13:56:33 | 日記

1月31日(水)晴れ。

今日で1月は終わり。今月の後半は何だかんだと忙しかった。27日は中華街で、弊社二十一世紀書院の新年の集いを行った。諸先生、諸先輩、同憂、同志そして社友など多くの方々のご列席を仰いだ。感謝申し上げます。翌日は、私が役員の末席を汚している大行社の新年総会に5名で出席。終了後に、会場近くの居酒屋から、私と松本佳展君と共に「オアジ」へ転戦。仲良しの佐伯さんととご夫妻と合流してとどめの酒。

キザなようだが、震災でご苦労されている能登地方の皆さんのことを考えたなら、ある程度身を律しなければいけないのだが、私に出来ることは、家族で、本当に雀の涙ほどの寄付をさせて頂くことや、請われれば物資の差し入れなどをしていきたいと思っている。

明治時代。製紙工場で働く女工を主人公として書かれたのが、昭和四十三年に山本茂実が発表した『あゝ野麦峠ーある製糸工女哀史』である。「野麦」とはクマザサの別名で、峠一帯に群生しているクマザサの小さな実をとって粉にし、ダンゴとして食用した村人達が、そう呼んだ。その頃農村では、ヒエ、アワ、キビなどが主食で、女工たちは、そんな粗末な物でも、まずいと感じた者は一人もおらず、「普通」と感じていたのが十パーセント、「旨い」と思って食していたのが九十パーセントを越えていた。信じられないかもしれないが『すしと文学』(大柴晏清著・栄光出版社)という本に書いてあった。

 彼女たちを、戦後の一部の史家は、「資本主義や帝国主義の犠牲者」のように描いているが、日本近代の黎明期、日清戦争後の「三国干渉」とりわけロシアの圧力に対して臥薪嘗胆して、国民が一丸となって努力していた時代だった。時代によって労働環境が変わるのは、仕方がないことで、私が子供の頃は、土曜日も休みではなく、普通に働いていた。「半ドン」となったのは、後年のことである。また、私の小学生時代、新聞配達をしていたのは、ほとんど小、中学生だった。(私も中学生の1年生から約2年間牛乳配達をしていた)。母が七輪一つで煮炊きしていた頃を思い出すことがある。暖衣飽食・・・。嫌な言葉だ。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする