二月六日(木)晴れ。
朝食は、紅鮭、納豆、トロロコブスープ。昼は、川崎駅中のイタメシ屋でピザ一枚。夜は、川崎の居酒屋で直会。
今日は、群青の会の大熊雄次氏が中心となり、志村馨、松本佳展の両君などが世話人となり野村先生の生誕祭を行った。本来は、先生の誕生日は二月の十四日である。毎年この日に行っていたが、会場の都合で前倒しとなった。
先生は、昭和十年の生まれであるから、御健在なら今年で八十五歳である。しかし私たちにとっては、亡くなられた五十八歳のままである。以前、奥様が、「お父さんが死んでから、二十年以上が過ぎて、私が向こうに行ったなら、お父さんは私のことが分かるかしら」と話された時には、さすがにホロッときた。
生誕祭は、当初は群馬県の雷電神社にて開催していた。その神社に亡くなられた正田秀幸氏が先生の「わが生の須臾なる命いかにせむ」の句碑を建てたことに由来する。その後、正田氏の地元の大宮、川崎と場所を移して行っている。野村先生の句碑は全国六カ所にある。菩提寺の浄発願寺には代表句の「俺に是非を」が、ご尊父の眠る、横浜は西区の通称「赤門の寺」東福寺には、「昂然として行くべし冬の銀河の世」、群馬県前橋市大前田町には辞世となった「惜別の銅鑼は濃霧の奥で鳴る」。福岡県には、やはり代表句。そして、今年の初夏には札幌に、代表句の句碑の完成披露をおこなう。
先生が壮烈なる自決を遂げてから二十七年、微力ながら先生の思想と行動が風化せぬように努力する所存です。今後ともご指導とご鞭撻のほどを伏してお願い致します。
朝食は、紅鮭、納豆、トロロコブスープ。昼は、川崎駅中のイタメシ屋でピザ一枚。夜は、川崎の居酒屋で直会。
今日は、群青の会の大熊雄次氏が中心となり、志村馨、松本佳展の両君などが世話人となり野村先生の生誕祭を行った。本来は、先生の誕生日は二月の十四日である。毎年この日に行っていたが、会場の都合で前倒しとなった。
先生は、昭和十年の生まれであるから、御健在なら今年で八十五歳である。しかし私たちにとっては、亡くなられた五十八歳のままである。以前、奥様が、「お父さんが死んでから、二十年以上が過ぎて、私が向こうに行ったなら、お父さんは私のことが分かるかしら」と話された時には、さすがにホロッときた。
生誕祭は、当初は群馬県の雷電神社にて開催していた。その神社に亡くなられた正田秀幸氏が先生の「わが生の須臾なる命いかにせむ」の句碑を建てたことに由来する。その後、正田氏の地元の大宮、川崎と場所を移して行っている。野村先生の句碑は全国六カ所にある。菩提寺の浄発願寺には代表句の「俺に是非を」が、ご尊父の眠る、横浜は西区の通称「赤門の寺」東福寺には、「昂然として行くべし冬の銀河の世」、群馬県前橋市大前田町には辞世となった「惜別の銅鑼は濃霧の奥で鳴る」。福岡県には、やはり代表句。そして、今年の初夏には札幌に、代表句の句碑の完成披露をおこなう。
先生が壮烈なる自決を遂げてから二十七年、微力ながら先生の思想と行動が風化せぬように努力する所存です。今後ともご指導とご鞭撻のほどを伏してお願い致します。