7月16日(日)晴れ。
詳しい年月日は失念してしまったが、随分前の話。ある時に、会社に「松崎というものですが、野村さんの句集『銀河蒼茫』を10冊ばかり欲しいのですが」という電話が入った。巷の俳句の会から時折そういった連絡を頂くことがあるのでも、それほど珍しいという事ではなかったが、依頼主の名前を聞いて、アレ、どこかで聞いたことがあるなぁー、と思った。本の送り先は「国際労働総研」の事務所。私は、「失礼ですが、松崎さんってあのJR労組の方ですか」と聞いたら「ハイそうです。若い頃から俳句に興味があり、それで野村さんの句集を読みたくなりまして、電話しました」。ぶったまげたが、元革丸派の副議長、JRの東労組のトップだった、いわば私たちと全く正反対の立場の方からの注文に、いささか戸惑ったが、それはそれとして本をお送りした。
それからしばらくして松崎氏の訃報を知り、編集の方から『われらのインター』という冊子が送られて来た。編集長氏の丁寧な手紙にも感激したが、もっと驚いたのが、その第17号に「銀河蒼茫・野村秋介獄中句集にふれて」という松崎氏の文章が掲載されていたことだ。その連載は6回続き、連載の最後は「連載の一区切りにあたって」で終わっている。松崎氏の文章の一部を紹介してみたい。
「冬」から「秋」まで『銀河蒼茫』を紹介してきました。経験も知識も浅い私にとって、小林一茶よりも種田山頭火よりも、野村秋介烈士の句は感動的であった。軽薄な私にとって「経団連」に押し込み、事件になった「右翼」。『朝日新聞』社長室で「正しきを説き」、社長と、子息の眼前で自らの肉体に三発の銃弾を撃ち込み、断固たる自己主張を貰いた「右翼」。その程度の浅はかな認識しかもっていなかった。左翼として生き、正義を貫いてきたつもりの私の思い上がりを叩きのめすに充分の価値を持つもの。そして野村秋介氏にアプローチした。その直接の契機を与えてくれたのが『銀河蒼茫』である。(『われらのインター』より)
「浅はかな認識」は私も一緒で、革丸派、中核派、共産党や新左翼各セクトの違いなど判ろうとしたこともなく、今でもほとんど分からず単に「左翼」として一括りにして来た。若い頃と違って、人との付き合いに思想の違い、右と左の違いなどに興味もなくなった。松崎氏は野村先生の一つ年下の方。機会があれば墓参に行きたいと思っている。昨日の15日は、昭和38年に野村先生が河野一郎邸を焼き打ちしてから満60年という日だった。松崎氏と野村先生、今頃、あの世で句会などやっておられるだろうか。