白雲去来

蜷川正大の日々是口実

革命児・島岡強氏を知っていますか。

2014-07-03 09:54:17 | インポート

六月三十日(月)晴れ。

良い天気である。楽しみの朝食は、エボダイの干物、キュウリのおしんこ、めんたいこ、豆腐の味噌汁。天気は良いし朝食は美味しいし、こんな日は何か良いことがありそうな気がする。

そう言えば、先日、何時も行っている歯医者の待合室に本が置いてあるので、治療の合間に読んでみたら、これがとても面白い。先生に断わって借りたが、そのままイッキに読んでしまい、仕事にならなかった。その本とは、島岡由美子さんという人の書いた「我が志アフリカにあり」(朝日新聞社)というものだ。今年、上半期で読んだ本の中で一番感動した本だと思う。

タンザニアのザンジバルという土地で何のコネもなく友人、知人さえいない中で志をたてて孤軍奮闘、地元に溶け込み事業を拡大して行く。その動機というのが、彼の奥さんの父に語ったというこの言葉だ。「俺は革命家なので、まずは、アフリカ人のことを理解するため、どこかに土着して、そこの国の貧しい、圧倒的多数の民衆が従事する第一次産業に就くことで、少しでも多くの人が働ける場所を作り、そこをアフリカの拠点として、しっかりとした人間関係を築く中で、南アフリカの動向を見つめながら、時期の到来を待つ」と。それを本当に実践してしまう。

奥さんがご主人と出会ったのは、ご主人が十九歳、奥さんが二十歳の時で、北海道は利尻島のユースホステルだった。その時の印象は、「背が高く、日本人離れした長い手足に高い鼻、頭はギチギチのアフロヘアー、そして何といっても太くて濃い三角のかもめ眉毛に、力強い視線を放つ鋭い目、背中に『革命児 強』、袖には『先憂後楽』と金の縫い取りの入ったGジャンにぴったりとしたGパン」という格好だったそうだ。

革命児、生まれたときから両親に革命家として育てられてきた島岡氏は、高校二年生の時に意を決して冬の八甲田山に登る。そこで遭難の体験をするのだが、九日目の朝に捜索隊に救助される。なぜ登山経験もない彼がそんな無謀なことをしたかと言えば「俺は、自分がこれから本物の革命家として生きて行くためには、一度死に行かねばならない。それで死ねば、天が俺を必要としないということであり、生きて帰れたなら、天が俺を革命家として生きろと言っているのだと思い、それを八甲田にかけたのです」。

その後、奥さんと共にアフリカに渡り、壮絶な人生が始まるのだが、苦労を苦労とも思わず、人を労わり、地域社会に貢献して行く。ザンジバルで柔道場を建設したのも彼だ。正直言って、人を見る目のない私であったならば、初対面で「革命児」「先憂後楽」などといった刺繍の入ったGジャンなどを着ていたならば、いっぺんに拒否反応を示したのに違いあるまい。長い間、政治運動などに関わっていると、そういった、いわば「スローガン」を売りにしている人たちを大勢見て来たからである。島岡氏のことを知って、人を先入観や偏見で見てはいけないと言う「基本」をあらためて教えられた。

アマゾンで購入できるので、是非ご一読をお願いしたい。日本人として、島岡氏のような人がいることを知るだけでも誇りを持つことができる。戦前には、玄洋社や黒竜会と言った本物の大陸浪人がいた。現代の日本人は、生活は豊かになったが、人間が一回りも、二回りも小さくなった。もちろん私の自戒です。

517fer495dl_sl500_aa300_1 ※今の歳で読んで良かった。もし多感な十代、二十代の頃にこの本と出会っていたならば、人生が変わったかもしれない。それでもその頃にこの本と出会って、何もせずにいたならば、自己嫌悪に陥るに違いあるまい。昔も今も、私には島岡氏のような勇気と行動力のカケラもないことを自覚しているからだ。と思うと、還暦を過ぎて読んだことに、少しほっとしている。

凄い本だが、娘たちには読ませたくない。島岡氏の足元にも及ばないが、ある意味激しい生き方をしてきたので、子供たちには平凡な人生を送って貰いたいと思っている。

「志」や「正義感」というものを認識するには最高の本だと思う。そう言えば島岡氏は横浜は南区の弘明寺の生まれだそうだ。私も南区の生まれ。余計に親近感が湧く。また、その昔、福富町は清正公通りにあったおでん屋の「好の屋」(現在は港南区に移転)など若い頃に行ったことのあるお店が出てきたりして嬉しくもあった。

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