白雲去来

蜷川正大の日々是口実

折本さんの告別式。

2016-09-29 08:54:57 | 日記
九月二十四日(土)曇り後雨。

午前十時から行われる折本さんの告別式に出席するために、愚妻と共に東京行き。新宿から、京王線に乗ったが、アジア系の人たちの団体が、ドドっと乗ってきた。開いている席に一人ずつ座って、写真を撮ったり、離れている席同士で大声で会話したりと、正に傍若無人の振る舞い。これでは世界中で嫌われるのが良く分かる。せめて公共の場では静かにして貰いたいものだ。民度の低い国民のいる国では、良い政治家が出ないとは、良く言ったものだ。彼らの国の為政者を見ると、それが良く分かる。

愚妻と揃って、告別式に出席。その後出棺。火葬場へ。折本さんと最後のお別れである。秋晴れの日に、友は煙となって蒼天に昇って行ってしまった。折本さんの恩師である川井春三先生や、同じ寅の会の渡邊康司、内海政久の両氏などと語らっているのに違いあるまい。葬儀場に戻って、繰り上げ初七日。皆さんの前でご挨拶をさせて頂いた。

五時過ぎに帰宅。飲む気になれなかった。

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折本満さんの通夜式。

2016-09-29 08:37:00 | 日記
九月二十三日(金)曇り。

朝の五時に目が覚めてしまった。疲れているはずなのに、熟睡できない。群青忌が近くなるといつも体調に変化をきたす。加えて、今日は、盟友の折本満さんの通夜である。

パソコンのスイッチを入れて、ブログを更新したり、メールのチェックをしたり、家族が起きてくるのを待つ。六時、揃って朝食。頂いた秋刀魚を天ぷらにした。やはり新鮮なものは、どう調理しても美味しい。冷凍していたシジミの味噌汁。何となく、体に良いような気がする。二時に、松本佳展君が迎えに来るまで、細々とした用事を済ます。手紙を三通、山平さんの新刊本の贈呈に添える手紙などを書き終える。

読売新聞を見たら、『激しき雪-最後の国士・野村秋介』の本の広告が、ドカンと掲載されていた。この本にかける幻冬舎の意気込みが感じられて嬉しかった。その本も今日が発売日である。洛陽の紙価を高しめられんことを祈る次第。

二時に松本君に迎えに来て頂き、通夜式の行われる烏山へ。途中環八は混んでいたが、予定より早く着く。お手伝いをさせて頂く、野村一門の人たちも到着。愛媛から、矢野隆三さんが一番乗り。有難かった。夕方、折本さんと親しかった人たちが、続々と弔問に訪れ、早すぎる折本さんの死に涙していた。八時過ぎに終了。松本君に送って頂き帰宅。※左から、蜷川、折本幸子さん。矢野隆三氏、青山博美氏

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『燃えよ祖国』を発送。

2016-09-28 07:43:29 | 日記
九月二十二日(日)雨。秋分の日。

「祖先をうやまい、亡くなった人々をしのぶ」国民の祝日。宮中では秋季皇霊祭がこの日行われる。子供の頃は、この日に母が「おはぎ」を作ってくれるのがとても楽しみだった。きな粉、あずき、ごま砂糖。私は、ごまのおはぎが好きで、出来上がるのが待ち遠しく、母にせがんだものだった。ちなみに、「おはぎ」と「ぼた餅」は、季節によって呼び名が違うだけで、物としては同じもの。 漢字で書くと「牡丹餅」「お萩」。 ぼたもちは、牡丹の季節、春のお彼岸に食べるもの。おはぎは、萩の季節、秋のお彼岸に食べるもので、あずきの粒をその季節に咲く牡丹や萩に見立てたもの。

『燃えよ祖国』の二二五号が完成し、発送。今回は、政経調査会の槇泰智さんの原稿「相模原障害者施設殺傷事ー優生政策を論じる出発点とは成り得ない」が圧巻。私が知る限り、例の殺傷事件を検証し、論じた民族派は槙さんをおいて知らない。(私の勉強不足かもしれませんが)かつてナチが推し進めた「人種政策」。現代においては、その研究はほとんどタブー視されている。九月二十四日、NHKのBSの再放送、「ホローコーストのリハーサルー障害者虐殺・七十年目の真実」を見た。今までは、単にナチの特有な思想と思っていたが、二十世紀初頭には、その優生学がヨーロッパで支持されていたことを知り、うーん。番組をコピーしようと思うのだが最近のBSはダビングが難しい。ご興味のある方は、『燃えよ祖国』を是非。

夜は、機関誌の完成祝いで、カツオを肴に酔狂亭で独酌。

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折本さんのご自宅に弔問。

2016-09-27 09:31:32 | 日記
九月二十一日(水)曇り。

忙しい一日だった。まず、群青の会の大熊雄次氏と待ち合わせて、昨日亡くなられた折本満さんのご自宅に弔問に向かう。保土ヶ谷から湘南新宿ラインに乗ったつもりが、新川崎を過ぎてウトウトしたら「新橋」のアナウンスに、?マークが三つほど。何と、横須賀線に乗ってしまったらしい。大熊氏に事情を説明してから、山手線で新宿に行き、それから京王新線にて千歳烏山へ。二十五分ほど遅れてしまった。大熊氏には、スマン、スマン・オスマンサンコンと詫びた。

ご自宅で、亡くなられた折本満さんと対面。二か月にわたるご自宅での介護を尽くした奥さんには、「アッパレ」を山ほどあげたいと思った。そして奥さんを残して先に逝った折本さんには「喝」を一つ。折本さんの顔を見ていると、彼との四十年以上のお付き合いが甦る。通夜は二十三日、告別式は二十四日に決まったとのこと。旧知の青山博美さんと、その折にお会いすることを約して折本宅を辞した。

今度は、新宿から山手線で田町へ。二時半からの大行社の幹部会議に出席。相談役として所感を述べた。終了後は、再び新宿へ。阿形充規先生が主催する勉強会に参加。毎回、今回は政治評論家の山本峯章氏を講師に迎え「天皇の生前退位と摂政はどうあるべきか」、という事で一時間の講義を受けた。

終了後に帰宅。寝酒を飲んでも酔わないのは、疲れている証拠か。

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盟友の訃報に接する。

2016-09-26 10:28:39 | 日記
九月二十日(火)雨。

正午過ぎに、折本満さんの奥さんより電話が入り、午前中に折本さんが家族に見守られながら、眠るように息を引き取ったとのこと。六十四歳と言う若さであった。折本さんと初めてお会いしたのは、確かな年月は覚えていないが、昭和の四十九年頃だと記憶している。当時、核を保有している大国が、持たざる国に対して、これからの保有も開発も規制しようとする核拡散防止条約に、なぜか我が国もその条約をけ締結しようと言う策謀に反対しようと、民族派において、締結反対闘争が、展開されていた。

神社会館において、開催された共闘会議の席にて、長谷川光良さんから紹介されたのが折本さん。国士舘大学を出たばかりの、バリバリの活動家だった。その後の「一日共闘」にて、結成したばかりの国防青年隊の渡邊康司さんが参加し、仲良くなった。後に、国粋青年隊に所属していた岡崎一郎さんを交えて、桃園の誓いに倣って「寅の会」を結成し、戦線を共有することになった。長谷川光良、私、渡邊康司、折本満、岡崎一郎の五人が初期のメンバーである。

昭和五十二年の夏に、茨城の水街道において予定していた、「民族派大演説会」を、その年の三月に、野村先生が同志らと共に、「財界の営利至上主義を撃つ」として決起した、いわゆる「経団連事件」の支援集会に変更し、以後、新宿の花園神社や横浜で支援集会を開催した。皆、二十代の半ばを過ぎたばかりの、若手であった。渡邊康司さんは、平成八年に四十五歳と言う若さで亡くなり、その後に「寅の会」に参加した、内海政久さんは、平成十四年に五十三歳、そして折本満さんが、今日、六十四歳にて幽明境を異にした。

折本さんが、すい臓がんを患って入院手術。幾度か彼を見舞い、退院した時は、友人らと「激励会」を行い、何とか元気な体に戻ってほしいと願ったが、薬石の効なく、亡くなった。奥さんから、「余命二三ヶ月」ということを聞いた時は、ショックだった。その後の二か月間、奥さんが自宅で、彼を介護した。最後に、ご自宅に彼を見舞ったのは、先月の四日のこと。すっかり痩せてしまい、一回りも小さくなった彼を見て、思わず、落涙しそうになった。

外は、涙雨か。折ちゃん。長い間のお付き合いに感謝します。合掌。※写真は昭和五十三年、花園神社にて開催された「経団連事件」の支援集会にて連帯の挨拶をする渡邊康司氏

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