白雲去来

蜷川正大の日々是口実

季節にも色がある。

2016-09-11 13:21:53 | 日記
九月十日(土)晴れ。

季節に色があることを初めて知った。楠本健吉の「歳時記」によれば、「秋は色でいえば白、白秋である。ちなみに春は青春、夏は赤、朱夏、冬は黒―玄冬である。秋は白だといったが、日本の詩歌の世界では、白が絶対優位で、上代歌謡や万葉集に登場する色彩は約三十種あるといわれているけれども、上代歌謡ではその三十九パーセントが白、万葉では四十一パーセント、古今では四十五パーセント、新古今では実に五十一パーセントとされている」。

そう言えば経済にも色があって、経営は赤字、懐は真っ青。出るのは青色吐息か・・・。我が家の話です。

一日、原稿に向かう。連載させて頂いている『実話ドキュメント』の第一六九回、題名は「愛宕山を読む」である。夕方に脱稿して入稿。その後は『燃えよ祖国』の編集。気がつけば五時過ぎ、すっ飛びで晩酌の肴を求めて保土ヶ谷駅にある焼き鳥のデリバリーのお店に行く。スーパーなどにも出店しているのだが、最近は何か味が変わったらしく、美味しくない。五年ほど前、まだ「ネギ皮」というメニューがあった頃は、普通の焼き鳥屋などと比べても遜色ないと思い、良く買いに行ったが、最近は全く駄目だ。今回も、どうかな?と言う思いを持って買ったが、やはり駄目だった。もう止そうと思う。近くのスーパーで買った「メジマグロ」も最低で、ついていない晩酌となった。やはり、労苦を惜しんでは駄目だ。人生の大事な一食を無駄にした。(大げさか)

広島カープが二十五年ぶりにセリーグ優勝。野球にほとんど興味のない私にとっては、失礼ながら、万歳と言う気持ちにはなれない。その昔好きだった巨人も今では、選手の名前さえ分からない。腰の調子もお尻の調子もほぼ良くなったし、来週から少しずつ歩こうかと思う。

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菊の節句。

2016-09-11 12:34:09 | 日記
九月九日(金)晴れ。重陽の節句。

昔の中国では、この日家族そろって郊外の丘など高い所へ登って、茱萸(カワハジカミ・山椒(さんしょう))の実のついた小枝を折って魔除けのために身につけ、菊酒(菊の花びらの入った酒)を飲んだり、ご馳走を食べたりして一年最後の行楽が行われた。この日のことを詠んだ漢詩は多いが、私の好きなのは王維の「九月九日山東の兄弟を憶う」。

九月九日憶山東兄弟 九月九日山東の兄弟を憶う 王維

独在異郷為異客   独り異郷に在りて異客為なり
毎逢佳節倍思親   佳節に逢う毎に倍々親を思う
遥知兄弟登高処   遥かに知る 兄弟の高きに登る処
遍挿茱萸少一人   遍く茱萸を挿せど一人の少なきを

芭蕉の句にも「草の戸や日暮れてくれし菊の酒」がある。

今日の重陽の節句とは関係がないが、野村先生にも菊を詠んだ句があり、私の好きなものが多い。

大慈大悲 一輪の菊 咲にけり
嗚呼祖国 菊の白さを疑はぬ
たそがれて菊は弥勒の仄白さ
白菊の白が溢れて とどまらぬ
ドガの絵の踊り子白し 菊も壺も
君が愛でし大輪の菊 荘厳す
残菊を去るにも囚の歩幅かな

北朝鮮が、また核実験を行った。なぜこんな時に、あれほど「戦争法案反対」を声高に叫んだ、シールズとか言う連中は、北朝鮮の暴挙に声を上げないのか。これ一つ見ても彼ら、彼女らに、愛国心のカケラもないことが分かると言うものだ。反政府も反体制でも良い。しかし、愛国心の無い運動というものは、絶対に受け入れられるものではない。

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お千代さん蚊帳が広けりゃ入ろうか。

2016-09-11 12:00:49 | 日記
九月八日(木)曇り。

歳時記によれば、今日八日は、江戸中期の女流俳人の加賀の千代女の忌日である。千代女は元禄十六年、石川県の松任と言う所で、表具屋の娘として生まれた。美濃派の俳人、廬元坊の門下となったのは、彼女が十四歳の時。その時に詠んだ句が、「ほととぎす郭公(ほととぎす)とて明けにけり」。千代女は二十四歳の時に夫と死別、その際に「起きて見つ寝て見つ蚊帳の広さかな」の句は有名である。どこかの不届きな奴が、「お千代さん蚊帳が広けりゃ入ろうか」と茶化した。でもその気持ちは良く分かる。

昭和二十六年の今日は、サンフランシスコ講和会議に出席していた吉田茂全権は、対日講和条約に調印、同日、場所を移して日米安保条約の調印がなされた。この結果、日本は形式的に独立を回復することになった。しかし、この講和条約は全連合国との講和ではなく、日本がもっとも長期間戦って最大の被害を与えた中国は会議に招待されず、ソ連も調印を拒否し、四八か国とのあいだで結ばれたいわば片面講和というべきものだった。また安保条約は、独立後も米軍の駐留を引きつづき認めており、いわば「半独立」の状態ともいわれた。こうした米国の極東戦略の一環に組みこまれての出発は、その後外交上のさまざまな問題を生み出すことになった。

長い歴史の中では、単に一日と言っても、意義深い出来事が沢山ある。そんなことを思いながら、反省の酒を飲む。

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