九月四日(日)晴れ。
暦の上では秋ですが、厳しい残暑の日が続いています。という手紙の書き出しのような天気が続いている。日曜日に、事務所に行って、膨大な量のある野村先生の写真のポジフィルムをパソコンに入力する作業を行った。事務所のパソコンが壊れてしまって、自宅から旧式のモバイルをいちいち持って行かねばならないのが、煩わしいことこの上もない。まず、先生の冬の小樽での写真を五十枚ほど入力。手間のかかる仕事である。
靖国神社の参道にあるのが、大村益次郎の銅像である。彼は、明治二年(一八六九年)の今日、京都木屋町で元長州奇兵隊・越後の草莽隊・秋田の士族らによって襲われて重傷を負った。当時大村は農民を徴兵して軍隊を建設する政策をすすめており、これが士族の誇りを汚すものとして、士族らの憤激をかっていた。大村は、この傷によって同年の十一月五日に死亡した。靖国神社に彼の銅像が建立されたのは、明治二十六年六月のことである。
民族派が行動を起こすと、マスコミは暴力反対などと言うが、幕末から明治の時代までに、夥しい血が「天誅」の名の下に流された。今日の平和と繁栄は、言いかえるのならば、その天誅と言う暴力の下に築かれたと言っても過言ではない。国家とは、ある意味では暴力の投影した姿でもある。
夜は、久しぶりに「おでん」を作って、酔狂亭で名月と、黒霧島を相手に独酌。
暦の上では秋ですが、厳しい残暑の日が続いています。という手紙の書き出しのような天気が続いている。日曜日に、事務所に行って、膨大な量のある野村先生の写真のポジフィルムをパソコンに入力する作業を行った。事務所のパソコンが壊れてしまって、自宅から旧式のモバイルをいちいち持って行かねばならないのが、煩わしいことこの上もない。まず、先生の冬の小樽での写真を五十枚ほど入力。手間のかかる仕事である。
靖国神社の参道にあるのが、大村益次郎の銅像である。彼は、明治二年(一八六九年)の今日、京都木屋町で元長州奇兵隊・越後の草莽隊・秋田の士族らによって襲われて重傷を負った。当時大村は農民を徴兵して軍隊を建設する政策をすすめており、これが士族の誇りを汚すものとして、士族らの憤激をかっていた。大村は、この傷によって同年の十一月五日に死亡した。靖国神社に彼の銅像が建立されたのは、明治二十六年六月のことである。
民族派が行動を起こすと、マスコミは暴力反対などと言うが、幕末から明治の時代までに、夥しい血が「天誅」の名の下に流された。今日の平和と繁栄は、言いかえるのならば、その天誅と言う暴力の下に築かれたと言っても過言ではない。国家とは、ある意味では暴力の投影した姿でもある。
夜は、久しぶりに「おでん」を作って、酔狂亭で名月と、黒霧島を相手に独酌。