九月二十日(火)雨。
正午過ぎに、折本満さんの奥さんより電話が入り、午前中に折本さんが家族に見守られながら、眠るように息を引き取ったとのこと。六十四歳と言う若さであった。折本さんと初めてお会いしたのは、確かな年月は覚えていないが、昭和の四十九年頃だと記憶している。当時、核を保有している大国が、持たざる国に対して、これからの保有も開発も規制しようとする核拡散防止条約に、なぜか我が国もその条約をけ締結しようと言う策謀に反対しようと、民族派において、締結反対闘争が、展開されていた。
神社会館において、開催された共闘会議の席にて、長谷川光良さんから紹介されたのが折本さん。国士舘大学を出たばかりの、バリバリの活動家だった。その後の「一日共闘」にて、結成したばかりの国防青年隊の渡邊康司さんが参加し、仲良くなった。後に、国粋青年隊に所属していた岡崎一郎さんを交えて、桃園の誓いに倣って「寅の会」を結成し、戦線を共有することになった。長谷川光良、私、渡邊康司、折本満、岡崎一郎の五人が初期のメンバーである。
昭和五十二年の夏に、茨城の水街道において予定していた、「民族派大演説会」を、その年の三月に、野村先生が同志らと共に、「財界の営利至上主義を撃つ」として決起した、いわゆる「経団連事件」の支援集会に変更し、以後、新宿の花園神社や横浜で支援集会を開催した。皆、二十代の半ばを過ぎたばかりの、若手であった。渡邊康司さんは、平成八年に四十五歳と言う若さで亡くなり、その後に「寅の会」に参加した、内海政久さんは、平成十四年に五十三歳、そして折本満さんが、今日、六十四歳にて幽明境を異にした。
折本さんが、すい臓がんを患って入院手術。幾度か彼を見舞い、退院した時は、友人らと「激励会」を行い、何とか元気な体に戻ってほしいと願ったが、薬石の効なく、亡くなった。奥さんから、「余命二三ヶ月」ということを聞いた時は、ショックだった。その後の二か月間、奥さんが自宅で、彼を介護した。最後に、ご自宅に彼を見舞ったのは、先月の四日のこと。すっかり痩せてしまい、一回りも小さくなった彼を見て、思わず、落涙しそうになった。
外は、涙雨か。折ちゃん。長い間のお付き合いに感謝します。合掌。※写真は昭和五十三年、花園神社にて開催された「経団連事件」の支援集会にて連帯の挨拶をする渡邊康司氏
正午過ぎに、折本満さんの奥さんより電話が入り、午前中に折本さんが家族に見守られながら、眠るように息を引き取ったとのこと。六十四歳と言う若さであった。折本さんと初めてお会いしたのは、確かな年月は覚えていないが、昭和の四十九年頃だと記憶している。当時、核を保有している大国が、持たざる国に対して、これからの保有も開発も規制しようとする核拡散防止条約に、なぜか我が国もその条約をけ締結しようと言う策謀に反対しようと、民族派において、締結反対闘争が、展開されていた。
神社会館において、開催された共闘会議の席にて、長谷川光良さんから紹介されたのが折本さん。国士舘大学を出たばかりの、バリバリの活動家だった。その後の「一日共闘」にて、結成したばかりの国防青年隊の渡邊康司さんが参加し、仲良くなった。後に、国粋青年隊に所属していた岡崎一郎さんを交えて、桃園の誓いに倣って「寅の会」を結成し、戦線を共有することになった。長谷川光良、私、渡邊康司、折本満、岡崎一郎の五人が初期のメンバーである。
昭和五十二年の夏に、茨城の水街道において予定していた、「民族派大演説会」を、その年の三月に、野村先生が同志らと共に、「財界の営利至上主義を撃つ」として決起した、いわゆる「経団連事件」の支援集会に変更し、以後、新宿の花園神社や横浜で支援集会を開催した。皆、二十代の半ばを過ぎたばかりの、若手であった。渡邊康司さんは、平成八年に四十五歳と言う若さで亡くなり、その後に「寅の会」に参加した、内海政久さんは、平成十四年に五十三歳、そして折本満さんが、今日、六十四歳にて幽明境を異にした。
折本さんが、すい臓がんを患って入院手術。幾度か彼を見舞い、退院した時は、友人らと「激励会」を行い、何とか元気な体に戻ってほしいと願ったが、薬石の効なく、亡くなった。奥さんから、「余命二三ヶ月」ということを聞いた時は、ショックだった。その後の二か月間、奥さんが自宅で、彼を介護した。最後に、ご自宅に彼を見舞ったのは、先月の四日のこと。すっかり痩せてしまい、一回りも小さくなった彼を見て、思わず、落涙しそうになった。
外は、涙雨か。折ちゃん。長い間のお付き合いに感謝します。合掌。※写真は昭和五十三年、花園神社にて開催された「経団連事件」の支援集会にて連帯の挨拶をする渡邊康司氏