五月十二日(土)曇り。
朝食は、鮭の粕漬、とーふの味噌汁。昼は、家族で、近くの「たつ屋」でタンメンと餃子。夜は、鶏のから揚げ、海老のフリッター、トマトのサラダ。
開高健の『ベトナム戦記』(朝日文庫)を読了した。ベトナム戦争が終結したのは、昭和五十年(一九七五)の四月三十日のこと。その日、私は、渋谷で街頭活動を行っていた。ビルの電光掲示板で、戦争の終結を知った。自分は、ベトナム戦争と何の関わり合いが無かったが、自由主義陣営が、社会主義勢力に敗北したことが、ちょっとショックだった。
それから四十三年が過ぎて、『ベトナム戦記』を書いた開高健も亡くなり、ベトナム戦争の記憶も薄れつつある。「ベトコン」、「北爆」、「テト攻勢」、「10・21国際反戦デー」などの言葉は、死語になりつつある。南ベトナムの首都だったサイゴンはホーチミン市となり、日本からの観光客も多いと聞く。開高健が、このルポルタージュを書き上げたのは、昭和四十年のこと。すなわち一九六〇年代、日本でも反戦運動が盛んで、全国各地でアメリカのベトナム戦争介入に反対する運動が展開されていた。
そんな昔のことを思い出しつつ、事務所にある『開高健全集』でも読み返してみるか。ちなみに彼の記念館が茅ヶ崎の南海岸にある。
朝食は、鮭の粕漬、とーふの味噌汁。昼は、家族で、近くの「たつ屋」でタンメンと餃子。夜は、鶏のから揚げ、海老のフリッター、トマトのサラダ。
開高健の『ベトナム戦記』(朝日文庫)を読了した。ベトナム戦争が終結したのは、昭和五十年(一九七五)の四月三十日のこと。その日、私は、渋谷で街頭活動を行っていた。ビルの電光掲示板で、戦争の終結を知った。自分は、ベトナム戦争と何の関わり合いが無かったが、自由主義陣営が、社会主義勢力に敗北したことが、ちょっとショックだった。
それから四十三年が過ぎて、『ベトナム戦記』を書いた開高健も亡くなり、ベトナム戦争の記憶も薄れつつある。「ベトコン」、「北爆」、「テト攻勢」、「10・21国際反戦デー」などの言葉は、死語になりつつある。南ベトナムの首都だったサイゴンはホーチミン市となり、日本からの観光客も多いと聞く。開高健が、このルポルタージュを書き上げたのは、昭和四十年のこと。すなわち一九六〇年代、日本でも反戦運動が盛んで、全国各地でアメリカのベトナム戦争介入に反対する運動が展開されていた。
そんな昔のことを思い出しつつ、事務所にある『開高健全集』でも読み返してみるか。ちなみに彼の記念館が茅ヶ崎の南海岸にある。