白雲去来

蜷川正大の日々是口実

蕎麦前が好きだ。

2019-02-19 14:42:30 | 日記
二月十五日(金)曇り。

蕎麦屋で飲むことを教えてくれたのは、元楯の会の故阿部勉さんと岐阜の花房東洋先輩だった。いわゆる「蕎麦前」が当たり前のお二人から、特に、花房先輩からは「焼酎のそば湯割り」を教わり、阿部さんからは、「ダラダラ飲み」を教わった。

本来は、入った蕎麦屋で、蕎麦を食べる前に、板わさ、卵焼きなどで一、二合飲んでから「ざる蕎麦」で〆る、というのが王道だろうが、最近は、下町の蕎麦屋さんは「肴」が豊富で、居酒屋化しているお店が多い。マナー違反と怒られるかもしれないが、つい長居をしてしまう。もちろん、そう言うことを許されるお店を選んで行くが、長居できるか、出来ない店なのかぐらいの判断はつく歳となっている。

蕎麦屋での酒の肴に「ぬき」がある。つまり天ぷら蕎麦の「蕎麦ぬき」である。汁と天ぷらだけを肴にして食べるものだが、どうも気障ったらしくて、今まで一度も使ったことがない。また、カツ丼の「頭」だけは良く注文する。早い話が、「煮カツ」なのだが、ほとんど蕎麦屋には「煮カツ」というメニューはなく、よって「カツ丼の頭」を注文する。場所によっては「丘」という所もあるそうだが、聞いたことがない。池波正太郎先生のように粋な蕎麦屋での立ち振る舞いは出来ないが、最近は、居酒屋よりも蕎麦屋で飲む方が好きだ。

午前中に、雪が舞った。昨日の生誕祭のご褒美のような気がした。午前中に上の子供が、卒業旅行とかで仲良しの同級生四人と小樽へ行くので、京急の駅まで送って行った。「旅先で何か不便があったら電話するように」と札幌在住の社友、二人の電話番号を教えた。その後、事務所へ。夜は、お世話になっている方の弟氏と一献。「オアジ」から「愛福楼」へ転戦。愚妻が合流。世間話が主だったが、勉強になった。

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わが生の 須臾なる命 いかにせむ

2019-02-19 13:50:27 | 日記
二月十四日(木)曇り。野村先生の生誕祭。

野村先生がご存命だったら、今日で八十四歳となる。高齢化の現在、八十四歳でまだまだ現役の方はいくらでもいる。そう思いつつも、八十四歳となった先生のお姿の想像がつかない。

昨年は、野村先生が自裁なされてから四半世紀、二十五年の歳月が流れた。ご命日である十月二十日の「群青忌」には全国から五百余名の方の出席を賜った。私たち門下生は、野村先生を「過去の人」ではなく、今を生きる人たちの指針となるべき人として、いつまでも人々の心に残る人として語り続けられるように努力したいと思っている。

先生の生誕祭は、当初群馬県の雷電神社にて執り行っていた。その神社の境内に、昨年亡くなられた正田秀幸さんが、野村先生の「わが生の 須臾なる命 いかにせむ」の句碑を建立し、建立しただけでは魂がこもらないので、先生の生誕祭を行うことになった。その後、様々ないきさつがあって、最近では、神主さんの奉職先に近い川崎で、近親者のみで行っている。また、民族革新会議の犬塚博英議長から記念講演・ご挨拶をして頂くのが恒例となっている。

本年は、私が、このブログやフェイスブツクで告知したこともあって、親しい社友も参加した。感謝しております。終了後は、会場近くの居酒屋で野村先生の奥様を囲んで直会。九時過ぎに終了。主催者の群青の会の大熊雄次氏に感謝。

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柴又の川甚。

2019-02-18 18:09:27 | 日記
二月十三日(水)晴れ。

朝は、六時半に起きて朝食。昆布を贅沢に使ってダシを取り、キャベツを具に味噌汁。アジの干物に、納豆。昼は、上の子供と、久しぶりに、インドカレーの「モハン」へ。夜は、お世話になっている方たちと、西新宿のオペラシティヘーにて食事。

四月に、私の好きな柴又の「川甚」にて、仲の良い人たちと一献会を予定している。川甚は、「寅さん」の映画のなかで、さくらと博が結婚披露宴を行った場所として知られており、創業二二〇年の老舗である。また数々の文豪にも愛され、小説の中にも登場する。以下は、川甚のホーム頁より。

夏目漱石『彼岸過迄』より。「敬太郎は久し振りに晴々とした良い気分になって水だの岡だの帆かけ舟などを見廻した。......二人は柴又の帝釈天の傍まで来て「川甚」という家に這入って飯を食った」。

尾崎士郎『人生劇場』より。道が二つに分かれて左手の坂道が川魚料理「柳水亭」(これは後の「川甚」)の門へ続く曲がり角までくると吹岡は立ちどまった」。

谷崎 潤一郎『羹』より。「巾広い江戸川の水が帯のように悠々と流れて薄や芦や生茂った汀に「川甚」と記した白地の旗がぱたぱた鳴って翻っている」。

松本清張『風の視線』より。「車はいまだにひなびているこの土地ではちょっと珍しいしゃれた玄関の前庭にはいった。 「川甚」という料亭だった」。

まだ母が元気なころに、帝釈天の参道を歩き、その後、川甚にて「うなぎ」を食したことがある。獅子文六の『食味歳時記』(中公文庫)の中に、柴又名物の「草団子」に触れて書いた部分があるので紹介してみたい。

「帝釈天のある柴又は、昔から、草餅の団子が名物だが、この間、土地の人が、土産に持ってきてくれたのを見ると、緑青でも吹いてるように、青かった。一見して、人工染料で、色づけがしてある。柴又は江戸川に近く、昔はその堤に、ヨモギなぞが、沢山、生えてたのだろう。それで、草団子が、名物になったのだろう。もっとも、そんな草の生えるのは、春先きで、あの団子は、年中売ってた。それでも、自然の青い色を、呈してたのは、ヨモギを乾燥するとか、塩蔵するとか、何か、保存の策を、知ってたのだろう。しかし、そんな手間は、面倒だがら、人工染料を、用いるのだろう。その代り、草の香りもないし、第一食物とは思えない、不快な青さである」。

今では、保存方法も進化して、獅子文六先生が心配するほどではないだろうが、柴又に行くと、「寅さん」に敬意を表して、必ず買って帰る。

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野村先生のことが書かれていた。

2019-02-15 13:48:51 | 日記
二月十二日(火)晴れ。

ネットで遊んでいたら、田原総一朗さんが書いた『暴走司会者ー論客たちとの深夜の「激闘譜」』(中央公論社)という本を見つけてた。その中の第五章に「野村秋介との対話で確信、右翼とも議論はできる」とあり早速注文した。初版は、二〇一六年十二月であるから、今から三年前の物であるが、出版されたことを全く知らなかった。

いわゆる右翼の論客の方々が、「生テレビ」に揃って出演したのは一九九〇年の二月二三日のこと。この時のことは、その後『激論・日本の右翼』という題で本になっている。

田原さんの野村先生評だが、当然ながら、「ナルホド」と思う所もあるが、「それはどうかな」と思う所もある。あくまで田原総一郎と言う人の野村先生評と割り切って読んでみた方が良いと思う。先生について書かれた本は、そのうちにデータベース化するつもりでいる。

ニュースで水泳の池江璃花子さんが白血病ということを知ってとても驚いた。彼女は、国の宝でもある。病魔などに敗けずに、元気になって欲しいものだ。

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漱石と紀元節。

2019-02-12 13:22:43 | 日記
二月十一日(月)晴れ。建国記念の日・紀元節。

今日は皇紀二六七九年の紀元節。神武天皇肇国の昔を偲び、日の丸を掲げ、橿原神宮を遥拝。ご皇室の弥栄と天皇、皇后両陛下のご健勝を心からご祈念申し上げます。この日を何の根拠もない、という人がいる。約三千年前の出来事に根拠がある、ない、などと言うのは不毛である。長い歴史のある国は、何処でも「神話」に基づいた麗しい文化がある。私は、それを誇らしいと思う者の一人である。

全国各地で、民族派の人たちが奉祝の式典を開催している。一日も早く、政府主催の紀元節奉祝の式典を、両陛下ご臨席の下で開催して頂きたいと思っている。

以前から気になっていたのだが、夏目漱石の『永日小品』の中に「紀元節」という作品がある。漱石が小学生の頃に、先生が黒板に「記元節」と書いたのを、先生がいなくなった時に、漱石が、「記」の横に「紀」と書き直したことを述懐したものだが・・・。引用してみる。

「南向きの部屋であった。明かるい方を背中にした三十人ばかりの小供が黒い頭を揃えて、塗板(ぬりばん)を眺めていると、廊下から先生が這入って来た。先生は背の低い、眼の大きい、瘠せた男で、顎から頬へ掛けて、髯が爺汚く生えかかっていた。そうしてそのざらざらした顎の触わる着物の襟が薄黒く垢附いて見えた。この着物と、この髯の不精に延びるのと、それから、かつて小言を云った事がないのとで、先生はみなから馬鹿にされていた。先生はやがて、白墨を取って、黒板に記元節と大きく書いた。小供はみんな黒い頭を机の上に押しつけるようにして、作文を書き出した。先生は低い背を伸ばして、一同を見廻していたが、やがて廊下伝いに部屋を出て行った。すると、後ろから三番目の机の中ほどにいた小供が、席を立って先生の洋卓(テーブル)の傍へ来て、先生の使った白墨を取って、塗板に書いてある記元節の記の字へ棒を引いて、その傍へ新しく紀と肉太に書いた。ほかの小供は笑いもせずに驚いて見ていた。さきの小供が席へ帰ってしばらく立つと、先生も部屋へ帰って来た。そうして塗板に気がついた。『誰か記を紀と直したようだが、記と書いても好いんですよ』と云ってまた一同を見廻した。一同は黙っていた。記を紀と直したものは自分である。明治四十二年の今日でも、それを思い出すと下等な心持がしてならない。そうして、あれが爺むさい福田先生でなくって、みんなの怖がっていた校長先生であればよかったと思わない事はない。」

我が家にある辞書のどれを見ても「記元節」と書かれたものは無く、「記と書いても好いんですよ」。という解説を探せなかった。ご存知の方がいましたならばご教示願いたい。

夜は、社友からご恵送頂いた「シャモロツク鍋」を囲んだ。青森の特産地鶏とのことだが、いつも食べている鶏肉は何だろうか・・・と思わせるほど美味しかった。寒いので「黒霧島」をお湯割りでお供とした。

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