白雲去来

蜷川正大の日々是口実

大阪国際女子マラソン。

2024-02-04 13:15:43 | 日記

2月2日(金)曇り。

天気予報では、「良い天気」とのことだったが、残念ながら曇り空。最近、自宅と事務所の往復でほとんど歩いていない。幸いに曇ってはいるが、寒さは和らいでいる。昼から、愚妻を伴って一時間ほど歩いた。いつものコースはほとんどが下り坂なので歩きやすい。終点は京急の井土ヶ谷駅。いつもならば、ここから自宅までバスで帰るのだが、朝食を取っていなかったので、町中華の陳記というお店で朝食を兼ねた昼食。牛バラ丼のご飯少なめに餃子。夜は、久しぶりにトマト味のバスタ、レタスの温サラダ、ミスジ肉。お供は「伊佐美」。酔狂亭にて独酌。

録画をしておいた大阪国際女子マラソンを見た。前田穂南選手が日本新記録で二位。いやはや見ごたえのあるレースだった。何といっても興譲館高校時代からファンだった新谷仁美さんがペースメーカーをつとめるという贅沢なレース。そのペースメーカーを20キロを過ぎたあたりで置き去りにして、トップに立った。結果的には2位だったが、19年ぶりに日本記録を達成した。それにしても「天満屋」の武富監督は名伯楽だなぁー。これまでも多くのオリンピック選手を育てている。ちなみに前田選手は、陸上の名門の大阪薫英女学院の出身。今大会で3位に入った松田瑞生選手は高校の一級先輩。これが刺激になって、良い記録が出ることを期待したい。来月の名古屋ウィメンズマラソンが楽しみである。

以前のレースの録画を沢山持っている。しかし、そのほとんどが昔のVHSである。大変だが、それをDVDに入れてみようと思っている。

 


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49年目の真実は解明されるのか。

2024-02-02 17:26:37 | 日記

2月1日(木)晴れ。

寒いせいか歳のせいかは分からないが、最近は朝起きられなくなった。夜に子供のお弁当のおかずを仕込んでおき、それを朝に家人が用意するので、起きなくても文句を言われない。10時過ぎにのそのそ起きてから、朝食を兼ねた朝食。メニューは、最近凝っているニホンハムの「アンデス高原豚のローストンカツ」冷食の4枚入りである。薄切りで揚げるだけなのだが、これがかなり美味しい。キャベツの千切りを添えて中濃ソースにからしを溶かしてつけて食べる。味噌汁の具は、ナスをごま油で炒めたもの、自家製のきゅうりの糠漬け。

1974年から1975年にかけて起きた「連続企業爆破事件」。特に三菱重工爆破事件のことは良く覚えている。翌日に用事があって大手町へ行ったが、周辺は凄い警備関係の人やマスコミ関係の人でごった返していてた。東アジア反日武装戦線の「大地の牙」「さそり」「狼」の犯行だった。当時の感想は、何か劇画のタイトルのようだと思った。その後、メンバーの殆どが逮捕されたり、国外逃亡したりと事件から半世紀が過ぎて、若い人たちの間ではそんな事件があったことさえ忘れられようとしている。彼らの行動が、本当に虐げられたとするアジアの民のためになったとは、感じられないからだ。またその「東アジア」の民の中に「日本の民」がいないことも彼らに共感を覚えない理由の一つかもしれない。

きみまろではないが、あれから50年。いきなり桐島聡が名乗り出てきた。末期の胃がんで、その後息を引き取った。たとへ爆破犯であっても、人を殺していなければ、当時逮捕されていたら、とっくに刑期を終えて出ていただろうに。9年前の5月にフジテレビが彼らの特集を行なった。「40年目の真実・連続企業爆破事件ー極秘資料で明かす警察と爆弾」と言うものだ。中々良くできた映像で、久しぶりにその録画を見た。『腹々時計』のコピーも事務所のどこかにあるはずだ。その本は、事件は別として運動家の心構えとしては、非常に参考になった。


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あゝ野麦峠。

2024-02-01 13:56:33 | 日記

1月31日(水)晴れ。

今日で1月は終わり。今月の後半は何だかんだと忙しかった。27日は中華街で、弊社二十一世紀書院の新年の集いを行った。諸先生、諸先輩、同憂、同志そして社友など多くの方々のご列席を仰いだ。感謝申し上げます。翌日は、私が役員の末席を汚している大行社の新年総会に5名で出席。終了後に、会場近くの居酒屋から、私と松本佳展君と共に「オアジ」へ転戦。仲良しの佐伯さんととご夫妻と合流してとどめの酒。

キザなようだが、震災でご苦労されている能登地方の皆さんのことを考えたなら、ある程度身を律しなければいけないのだが、私に出来ることは、家族で、本当に雀の涙ほどの寄付をさせて頂くことや、請われれば物資の差し入れなどをしていきたいと思っている。

明治時代。製紙工場で働く女工を主人公として書かれたのが、昭和四十三年に山本茂実が発表した『あゝ野麦峠ーある製糸工女哀史』である。「野麦」とはクマザサの別名で、峠一帯に群生しているクマザサの小さな実をとって粉にし、ダンゴとして食用した村人達が、そう呼んだ。その頃農村では、ヒエ、アワ、キビなどが主食で、女工たちは、そんな粗末な物でも、まずいと感じた者は一人もおらず、「普通」と感じていたのが十パーセント、「旨い」と思って食していたのが九十パーセントを越えていた。信じられないかもしれないが『すしと文学』(大柴晏清著・栄光出版社)という本に書いてあった。

 彼女たちを、戦後の一部の史家は、「資本主義や帝国主義の犠牲者」のように描いているが、日本近代の黎明期、日清戦争後の「三国干渉」とりわけロシアの圧力に対して臥薪嘗胆して、国民が一丸となって努力していた時代だった。時代によって労働環境が変わるのは、仕方がないことで、私が子供の頃は、土曜日も休みではなく、普通に働いていた。「半ドン」となったのは、後年のことである。また、私の小学生時代、新聞配達をしていたのは、ほとんど小、中学生だった。(私も中学生の1年生から約2年間牛乳配達をしていた)。母が七輪一つで煮炊きしていた頃を思い出すことがある。暖衣飽食・・・。嫌な言葉だ。


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