スピノザの『エチカ』と趣味のブログ

スピノザの『エチカ』について僕が考えていることと,趣味である将棋・競馬・競輪などについて綴るブログです。

善知鳥杯争奪戦&行使

2022-09-11 19:07:29 | 競輪
 青森記念の決勝。並びは中野‐新山‐内藤の北日本,吉田に椎木尾,郡司‐和田の神奈川,清水‐三谷の西日本。
 一旦は和田がスタートを取ったのですが,内から追い抜いた清水が誘導の後ろに入って前受け。3番手に郡司,5番手に中野,8番手に吉田で周回。残り3周のバックから吉田が上昇。中野の横でふたをしながらの併走でホームへ。スローペースになりましたが,この隊列のままだれも動かなかったので,清水の成り行き先行になり,3番手に郡司,5番手に吉田で引いた中野が7番手で打鐘前のバックに。ここから中野が発進していきましたが,新山は離れて単騎に。ホーム通過後のコーナーで郡司が牽制すると,中野は失速して不発。バックに入ると吉田が内から進出。郡司の横あたりまで来ると郡司が最終コーナー手前から発進。これを三谷が強めに牽制したため,清水と三谷の間が大きく開き,そこに突っ込んでいった吉田が抜け出して優勝。郡司マークからうまく吉田を追う形になった和田が2車身差で2着。三谷の牽制を乗り越えることはできた郡司が4分の3車身差で3着。
 優勝した茨城の吉田拓矢選手は5月の宇都宮記念以来の優勝で記念競輪5勝目。青森記念は初優勝。このレースは今年の元日にデビューしてから30連勝していた佐藤がどのようなレースをするのかということがひとつの焦点。もしも後ろを引き出すようなレースをするなら新山が有利でしょうし,自分が勝つことも視野に入れるのであれば,その先行をだれかが捲ることができるのかということが注目点。ところがほかの3人の自力型に徹底的にマークされたため,先行することさえできませんでした。結果的にいえば,前受けをするか,そうでなければ後方に構えるかした方がよく,5番手になったのが敗因でしょう。吉田はうまく中野を封じた上で勝負所で内から進出しました。三谷の牽制が大きすぎたのは確かで,その面では恵まれたともいえますが,うまくレースをコントロールした上での立派な優勝だったと思います。

 自然権jus naturaeがコナトゥスconatusに由来するとすれば,第一に,自然Naturaのうちに現実的に存在するすべてのものは自然権を有するということが帰結し,また,自然のうちに現実的に存在するもののうち,同一の自然権を有する複数のものが存在することはないということが帰結します。そしてそのために,現実的に存在するあるものがより多くの自然権を有するということは,そのものがより大きな力potentiaを有するということを表示するのではなく,そのものの無力impotentiaを表示することになるのです。現実的に存在する人間が,受動passioに隷属している限りでは,その人間が自然権を有するということは,理念的な意味でしかないということを,僕は前もって指摘しておきましたが,それは,より多くの自然権を有するということは,そのものの無力を表示するということと関係します。現実的に存在する人間が完全に受動に隷属するというのは,実はリアルな事象ではないと僕は考えているのですが,仮にそのような事態を想定するとすれば,その人間は働きを受けるpati限りで自己の有に固執しますが,能動的に自己の有に固執するperseverareことはありません。したがって,この人間は,理念的には自然権を有するということができても,その自然権を行使している,能動的に行使しているとはいえず,むしろ自然権を放棄しているということになるでしょう。つまり,理念的に自然権があるということと,自然権を行使するということは,分けて考えておいた方がよいのです。
                                        
 それではスピノザが『国家論Tractatus Politicus』で指摘していることを引き続いて検証していきます。
 コナトゥスに自然権が由来するのであれば,現実的に存在する諸個人は,各人がなしていることのすべては,最高の自然権に従ってなしているということになります。人間は理性ratioに従っていようと従っていなかろうと,自己の有に固執するというコナトゥスは働き,またその働きactioについては意識しているからです。よって,自然権が何事かを現実的に存在する人間に対して禁じるとすれば,それはだれもがなし得ないこと,あるいはだれもが欲望しないことだけであることになります。つまり自然権というのは,現実的に何かを禁じるようなものではありません。
コメント
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