『世界』を読む会

寅さんの博も読んでいる『世界』を読んで、話し合おう。

小田切徳美「『農村たたみ』に抗する田園回帰」を読んで

2014-10-03 19:28:10 | 日記

 

● 9月号 小田切徳美「『農村たたみ』に抗する田園回帰」を読んで
           
                                    須山敦行

           
 政治や社会は、私たちには手の届かない所で、「自然に」流れていくように感じ、それを後追いするのがやっとのように受け止めているが、実は、「力を持つ者」によって、意図的に動かされているのではないか。

 「増田レポート」からの一連の動きを観察すると、その動かし方の手口が見えてくるようだ。

① 「増田寛也+人口減少問題研究会」の名の「第1レポート」(『中央公論』13年12月号)
② 日本創成会議・人口減少問題検討分科会の「成長を続ける21世紀のために『ストップ少子化・地方元気戦略』」(第2レポート)(14年5月8日)
③ 「増田寛也+日本創成会議・人口減少問題検討分科会」の名の「第3レポート」(『中央公論』14年6月号)
④ 経済財政諮問会議専門調査会・「選択する未来」委員会の中間報告「未来への選択……人口急減・超高齢社会を超えて、日本発成長・発展モデルを構築」
⑤ 「経済財政運営と改革の基本方針二○一四(「骨太二○一四」)の閣議決定(14年6月24日)

 こんな風に、政治は社会を動かして行くのだ。

 そして、この動きは

Ⅰ 「農村たたみ論」への道案内


 
 当事者地域住民にとって、「消滅するからもう撤退しよう」という呼びかけに聞こえる作用をし、いつのまにか、特定の地域に対する撤退の勧めとして実質的に機能し始めているのだ、……と言う。 

 第三一次地方制度調査会では、
……総会の場では、委員として参加した複数の国会議員から、早速、市町村消滅論を意識した道州制への期待が語られた。このように、永田町や霞ヶ関の一部では、「市町村消滅論」という人為的に起こされたショックが、諸制度の急進的リセットのための「魔法の杖」として機能する可能性は否定できない。……

  ……「市町村消滅」が言われることにより、乱暴な「農村たたみ論」が強力に立ち上がり、他方では「あきらめ論」が農村の一部で生じている。そして、それに乗ずるように狡猾な「制度リセット論」が紛れ込むという三者が入り乱れた状況が、いま、各所で進みつつある。……
というのだ。

 「農村たたみ論」がめざす日本の姿はどうであろうか。

Ⅱ 「農村たたみ論」がめざす日本の姿は


 「農業保護をやめればサラリーマンは豊かな生活ができる」竹村健一『日本農業大改造論』
  大前研一『新・国富論』
  小泉構造改革路線
  安倍 「『世界で一番企業が活躍しやすい国』を目指す」 

と、いう路線は、

 グローバリゼーションの中での日本の競争力強化という路線そのものである

  欧州での「コンパクト」が、「脱成長」や「成熟社会化」を目指したものであるのに対して、
  日本での「コンパクトシティ」構想は、財政負担の軽減や効率化のみを考えたものである。

Ⅲ 「田園回帰」のとらえ方


 筆者は、「田園回帰」の動きに注目する。
 それは、脱成長型都市農村共生的社会を追求する道……であると。
 田園回帰の動きは新しい社会における暮らし方を先取りしている可能性がある。
 田園回帰は「農村たたみ」の対抗軸に他ならない。 ……と。
 「むらは温かい
 「地域の人はかっこいい
という若者の声は、……生産や生活の小さな技を当たり前に持つ地域住民、特に高齢者に対して向けられた畏敬の念からの言葉である。……と。

◎ 結論

 そして、結論的に、こう強調する。
 より重大なことは、「消滅」のレッテル貼りという強いインパクトが、農村を直撃して、そこに「あきらめ」が支配してしまうことが心配されることである。行政学研究者の大森彌氏はいち早く指摘する。「(自治体消滅は)起こらない。起こるとすれば、自治体消滅という最悪の事態を想定したがゆえに、人びとの気持ちが萎えてしまし、そのすきに乗じて『撤退』を不可避だと思わせ、人為的に市町村を消滅させようとする動きが出てくる場合である」

  未来は変えられる

 「市町村消滅論」はそれが真実であろうとなかろうと、前者の道に農村を追い込もうとしている。そこにこそ、この議論の真の意図があるのかもしれない。
 成長追求型都市的社会を追求するのか否かの選択である。
 「農村たたみ」はその選択とリンクする動きと言えよう。

※ この9月号の「増田レポート」批判は、10月に入った現在、秋の臨時国会で現実味を帯びた問題として焦点を当てられるものになった。10月号でも、特集「生きつづけられる地方都市」として、問題が深められている。

 

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親川志奈子 「『本土の沖縄』化という言葉」 を読んで

2014-10-03 19:28:10 | 日記

● 9月号 親川志奈子「『本土の沖縄』化という言葉」を読んで

                                      須山敦行

 連載のリレーコラムの短文であるが、私にとって、ドンと胸に突き刺さる鋭いものだった。

 筆者は、「本土の沖縄化」「沖縄にいらないものはどこにもいらない」「基地はどこにもいらない」の三点セットが、沖縄人の私の胸をえぐる。という。
 これら(三点セット)は、私が使っている言葉ではないか。

 さらに、「本土の沖縄化」という言葉はまさに知念ウシが示す「シランフーナー(知らないふり)の暴力」なのだろう。「沖縄問題」を「沖縄問題」たらしめている、日本人としてのポジショナリティに対しシランフーナーをすることで、無邪気に「基地はどこにもいらない」と口にできる人格形成がなされる。と来る。

 ……人口の四人に一人を戦で失った沖縄なのだ。……
 ……六九年にわたり沖縄に米軍基地問題を押しつけてきた日本の人々が「本土の沖縄化を許してはならない」と熱く語り合っているのだ。……

 ……「沖縄にいらないものはどこにもいらない」ではないのだ。……
 ……「日本にいらないものは沖縄にいらない」という声が日本側から聞こえてこなくてはいけないのだ。……

 ……
 「基地はヤマトへ」
 「(オスプレイのこと)一刻も早く佐賀空港へ移設すべきだ」
 ……

 さあ、さて「運動論」として、どうなのだろう?

 それにしても、キツク胸をえぐる、文の力に押しまくられた。

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