「地方創生」という名の「地方切り捨て」(金子勝)を読んで
巻 和泉
(1)
今「ブラック企業」に働く若者たちのルポを読んでいる。悲惨である。「お前は人間のくずだ」と罵倒されながら、自分の精神を破壊されるまで職場にしがみつく。どうしてだろうと思う。彼らはどうやら過酷な仕事を自分に課せられた試練だと思わされているようで、どんな無理難題でも従順に挑戦しようとする。戦前の軍隊の内務班における古参兵の執拗ないじめを思わせる事態が、戦後の明るい都会のど真ん中の企業で横行している。しかし今やブラック企業は特別な存在ではなくなりつつある。日本の企業全体が総ブラック化するような動きを、安倍政権の労働政策は強めている。軍隊のいじめは、だれも逃げられないという閉鎖された空間で可能だった。しかし現代の企業はそうではない。お互いに自由な契約関係で、偶然に結ばれている関係にすぎないはずだ。したがっていつでも自由に逃げればいい。ところが、彼らは精神と肉体が壊れるまで働き続けるのである。どうして逃げだそうとしないのだろうか。おそらく「終身雇用制」という幻想が彼らを縛りつけているにちがいない。自分の人生は会社での人生とそのまま重なっていて、それ以外の多様な世界と人生が見えなくなっている。少なくとも自分の人生をかける価値を感じられる世界が、これまでの生活のあらゆる場面で他には与えられてこなかったということだろう。都会は自由で豊かであり、田舎は不自由で何もないというイデオロギーをメディアは常にまき散らしてきた。ときに田舎の自然を賛美する番組はあるが、それは自然の賛美であって、そこにおける生活と人生の豊かさを伝えるものではなかった。
人生は、夢や生き甲斐に導かれて始まり、自尊心や誇りに支えられて展開するものであろう。戦後七十年たって日本の資本主義が作りあげた現実は、働く人々の人生そのものと激しく対立して破壊するものになってしまった。
(2)
安倍政権の新自由主義的な政策は、こうした総ブラック企業化の現実を地方の切り捨てを加速させながらいっそう激しく推し進めようとしている。「地方に雇用を生み出す産業戦略を」という副題をもつ金子論文は、今現実に都会で苦しんでいる若者たちに、新しい生き方の可能性を開く対抗軸として、田舎の生活と人生を構想するきっかけを与えてくれている。
著者は安倍政権の成長戦略は、二〇世紀の「集中メインフレーム型」の発想から抜け出せないでいるという。したがって安倍政権が打ち上げる「地方創生」は、結局は「格差拡大と地域衰退を加速させ」ることになる。「増田レポートによる『選択と集中』論も、かつて小泉『構造改革』とともに行われた平成の大合併と言われる市町村合併を想起させる」にすぎない。著者はこれに対して、スーパー・コンピューターと情報通信技術の発達を背景にした、二一世紀の「地域分散ネットワーク型」の産業構造と社会システムを提唱している。それは食と農業・エネルギー・社会福祉の自給圏を基礎に構想されている。「地域の中小企業・農業者・市民が出資し、自らの地域資源を活かして、どのような再生可能エネルギーに投資するかを自ら決定する、エネルギー地域民主主義を生み出す」という展望も魅力的である。ただ再生可能エネルギーの買電を電力会社が拒否するなど、原子力ムラの妨害はすでに激しく始まっている。
「六次産業化」という用語をはじめて目にした。「六次産業化とは、地域単位で、一次産業、二次産業、三次産業を垂直的に統合することによって、コストを引き下げるとともに、地域に雇用を作り出すことで所得の向上を図る方法である」という。北海道士幌町や大分県大山町などの例が挙げられている。これに再生可能エネルギーの発電・売却を兼業とする「エネルギー兼業農家」との組み合わせを提唱している。こうした「自立的な地域経済を創り出す」ことを通じて、「農業は誇り高い職業としての地位を取り戻すことができるはずである」とある。大事なことはそういうことなのだ。コスト削減一辺倒、大規模経営による効率的経営というようなかけ声には、農業に従事することの「誇らしさ」が微塵も感じられない。私には「地域分散ネットワーク型」の産業構造と社会システムの中身がすべて理解できたわけではない。しかし目指そうとしている目標には深く共感できるものがある。
著者は論文の最後の部分で「正社員であってもブラック企業で働く若い世代に対して、未来に希望が持てる社会ビジョンを語ることが今ほど必要な時はない」と述べている。その通りだと思う。ただ残念ながら、「地域分散ネットワーク型」の産業構造と社会システムの中身が、まだまだ私の中に明確なイメージで浮かんでこない。このイメージをもっと豊かに、そこに身を置く一人一人の生き方として膨らましていく仕事が必要になっていると思った。